2025年6月号|特集 ジャパニーズ・フュージョン
【Part1】 ジャパニーズ・フュージョンの夜明け|ジャパニーズ・フュージョンSTORY
解説
2025.6.2
文/金澤寿和

フュージョンとクロスオーヴァー。この言葉の推移に、音楽スタイルの進化・多様化がシンクロしている
コレまさに青天の霹靂。シティポップもそうだったが、21世紀も1/4が過ぎた今になって、日本のフュージョンが再評価されるとは……。でもその全盛期を肌で知る音楽ファンは、もう50〜60歳代のはずだから、いまフュージョンに群がる若い世代やインバウンド勢とは、評価軸やセンスが大きく異なる。当時は軽い扱いだったアーティストが人気だったり、同じバンドでも注目曲が代わっていたり。でもそうした細かい所に目くじらを立てるより、大きく俯瞰して捉えつつ、そのニュアンスの違いを楽しんでしまう方が健全だ。
ただその歴史を追う前に、フュージョンとクロスオーヴァー、その日本国内での用語の変遷を押さえておきたい。何故ならこの言葉の推移に、音楽スタイルの進化・多様化がシンクロしているからである。
このふたつの言葉は、ジャンル用語的にはイコールだ。現在は “フュージョン” が一般的だが、先に浸透したのは “クロスオーヴァー”。ジャズ、ロック、ポップス、ファンク、ラテン、クラシックなどの異種交配が互いに反発しあい、火花を散らす様を表現している。でも少し時間を置くことでそれが融合し、新しいスタイルとして確立したのが、フュージョンと呼ばれるようになった。故に音楽としての成熟度が用語の移り変わりに反映されている。調べてみると、’78年〜’79年にかけて徐々に言い換えが進んだようで、この時期に矢継ぎのリリースを重ねたザ・スクェア(現T-SQUARE)を当たってみたところ、帯上部にあるジャンル表記が、’78年12月発売の2作目『Midnight Lover』ではクロスオーヴァー(正確にはクロスオーバー)、’79年6月発売の3作目『Make Me A Star』ではフュージョンになっている。’78年11月にスタートしたNHK-FM深夜の人気音楽番組が『クロスオーバーイレブン』という名称だったため、何か遠巻きの因果関係があったかもしれない。

THE SQUARE
『Midnight Lover』
1978年発売
この辺りを踏まえて、和製フュージョンの成り立ちに目を向けてみよう。まず日本では、米ジャズ・シーンに於けるマイルス・デイヴィスのような絶対的アイコン、カリスマ先導者がいなかった。そのためジャズ方面からは、大きく目立ったクロスオーヴァー現象は起きていない。もちろん、60年代から果敢にジャズとボサノヴァ、ラウンジ・ミュージック、あるいはアフリカ音楽とのミクスチャーに挑戦したナベサダこと渡辺貞夫、自身のクインテット(鈴木宏昌、村岡建ら)で発表した『ハイノロジー』(’69年)が画期的なファンキー・ジャズとして注目された日野皓正などがいたが、如何せん当時の国産ジャズは、ごくごく一部の愛好家のモノに過ぎなかった。彼らの下で頭角を現した菊地雅章、鈴木勲、増尾好秋、川崎燎にしても、渡米してしまったり、日米を行ったり来たり……。だから国内のジャズ現場で地殻変動を呼び起こしたのは、スタジオ・ミュージシャンとしても活動していたサックスの稲垣次郎、ドラムの石川晶や猪俣猛らではなかったか。
こうした若手ジャズメンは、先輩たちのコンボや著名ビッグ・バンドで実力を研鑽しつつ、歌謡曲や流行歌のスタジオ・セッション、あるいはムード歌謡系インスト作品を吹き込んで生活費を稼ぎ、自分のグループで新しいジャズを模索した。稲垣次郎&ヒズ・ソウル・メディア『ヘッド・ロック』、石川晶とカウント・バッファローズ『エレクトラム』、猪俣猛とサウンド・リミテッド『サウンド・オブ・サウンド・リミテッド』などは、いずれも’70年に発売されたジャズ・ロック名盤である。でもクロスオーヴァー的視点に立つとハイブリッド感や洗練度は薄く、まだ和ジャズの範疇から脱していない感がある。稲垣と猪俣が見聞を広げようと渡米して見てきたのは、テン・イヤーズ・アフターやブッカー・T.&ザ・MGズだったそうだし、ソウル・メディアがカヴァーしたのもクリーム。先を行くナベサダやヒノテルら海外組も、アフロやスピリチュアルな方向に進んでおり、ポピュラリティーは低かった。

石川晶とカウント・バッファローズ
『エレクトラム』
1970年発売
でも国内で数多のスタジオ・セッションを消化するジャズメンには、スタジオの空き時間を自由に使うことが許された。そこで彼らは目指す音を探し、それが形になってくるのが’73年頃から。松木恒秀(g)や岡沢章(b)が参加した新生ソウル・メディアは、クルセイダーズやクール&ザ・ギャングのカヴァーを含む『イン・ザ・グルーヴ』『ファンキー・スタッフ』を発表。ソウル・メディアとコルゲンこと鈴木宏昌(kyd)が共演した『バイ・ザ・レッド・ストリーム』、同じくコルゲン編曲による石川晶とカウント・バッファローズ『ゲット・アップ!』、若き渡辺香津美を迎えてエレクトリック・ジャズに挑んだ今田勝『グリーン・キャタピラー』、石川やヒノテルのバンドで活躍した杉本喜代志(g)『アワー・タイム』といったアルバム群は、どれも70年代半ばに生まれている。それだけ機が熟し、リアルなクロスオーヴァー作品が増えてきたのだ。
ちなみに、筆者がジャズかクロスオーヴァーかを選り分ける判断材料は、ピアノやベースのエレクトリック化、あるいはシンセサイザーの導入など。8ビートや16ビートをしなやかに叩き出せるドラマーがいれば、より好ましい。この時期にドラマーのリーダー・グループが多いのも、きっと無関係ではないのだろう。

サディスティック・ミカ・バンド
『黒船』
1974年発売
しかしこうした脱ジャズの胎動は、当時の保守的ジャズ・ファンにはほとんど無視されたようである。対してロックやポップス方面には、変化の兆しに敏感なミュージシャンや聴き手が多かった。サディスティック・ミカ・バンドが、エポック・メイキングな名盤『黒船』を出したのが’74年。そこではファンキーなインスト曲が披露され、ギタリスト高中正義が後々代表曲となる「黒船(嘉永6年6月4日)」を提供している。また、はっぴいえんど解散後の細野晴臣と鈴木茂を中心に、松任谷正隆、林立夫が集まったキャラメル・ママは、’73年の結成以来、荒井由実や吉田美奈子、小坂忠、雪村いずみといったシンガーたちをサポートするプロデュース・ユニット兼セッション・バンドとして機能した。彼らは’74年にティン・パン・アレーへ改名。翌年の初アルバム『キャラメルママ』に、ゲストの後藤次利が衝撃的スラップ・ベースをお披露目した「チョッパーズ・ブギ」を収録する。更に同時期に単身米西海岸へ飛んだ鈴木茂は、リトル・フィートやタワー・オブ・パワー、元サンタナ、元スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのメンバーとレコーディングした『BAND WAGON』を発表。ヴォーカル曲とベイエリア・ファンク由来のインスト曲を混在させた。

ティン・パン・アレー
『キャラメルママ』
1975年発売
一方、’71年にシンガー・ソングライターとしてデビューしていた深町純は、’75年にアナログ・シンセサイザーを駆使した先駆的クロスオーヴァー・アルバム『イントロデューシング』、そこで深町を支えた村上“ポンタ”秀一(ds)、小原礼(b)、大村憲司(g)と21stセンチュリー・バンドを組み、いとまなく『六喩』を制作している。またこの3人に林立夫、ジョン山崎(kyd)、浜口茂外也(perc)が加わって、セッション・バンドのバンブーを結成。翌’76年にはこれがカミーノに発展した(メンバーは小原・大村・ポンタ・是方博邦)。どちらもスタジオ・アルバムは残していないが、カミーノはゼロ年代に発掘ライヴ2枚が世に出ている。
’74年『一触即発』でプログレッシヴ・ロック・ファンを湧かせた四人囃子は、’76年作『ゴールデン・ピクニックス』でクロスオーヴァー化したサウンドを創出。国内フュージョン史に残る美メロ・インスト<レディ・ヴァイオレッタ>を生んだギターの森園勝敏を、ネクスト・ステップに送り出した。この頃には、ミカ・バンド解散を受けて演奏陣でサディスティックスを旗揚げした高中も、バンドに先駆けて初ソロ・アルバム『SEYCHELLS』をリリースしている。

四人囃子
『ゴールデン・ピクニックス』
1976年発売
当時は日本のロック・シーンもまだ黎明期。バンドやミュージシャンたちは、それぞれに試行錯誤を続けていた。それでも旧態依然としたジャズ・シーンより、自由な空気が流れていたのは間違いない。ロック自体が反体制的の象徴だから、斬新なトライや実験を行ないやすく、リスナー側にもそれを容認する土壌があったのだ。そのためか、従来の歌謡界の定形だった楽曲制作の分業体制に風穴を開けたのも、キャラメル・ママ/ティン・パン・アレーや加藤和彦率いるミカ・バンド勢。彼らが率先して、ニューミュージックと呼ばれる自作自演のシンガー・ソングライターたちを支えた。ユーミンと同時期の’73年末に録音された五輪真弓のライヴ盤『冬ざれた街』では、大村・ポンタ・高水健司(b)の3人組エントランスがサポート。同じようにりりィのバックを務めるバイバイ・セッション・バンドには、坂本龍一や伊藤銀次、吉田建、斉藤ノブ、井上鑑、土屋昌巳らが次々去来し、ヒット・シングル<私は泣いています>(’74年)B面などでエグいファンク・グルーヴを炸裂させた。ところが一転、若手ジャズメンのクロスオーヴァー化の前には、頑固なジャズ愛好家たちが立ちはだかっていた。

五輪真弓
『冬ざれた街』
1974年発売
これを打ち破るキッカケを作ったのは、もしかしたら海外の人気ロック・ギタリストの活躍だったかもしれない。そう、ジェフ・ベックが’75年に発表した初のギター・インスト作『ブロウ・バイ・ブロウ』だ。その充実した内容、衝撃的プレイは、世界中の音楽シーンを席巻。アルバム発表後ジェフはファンク・マスターのバーナード・パーディ(ds)を迎えたバンドで、ジョン・マクラフリン率いるマハヴィシュヌ・オーケストラと共演した。ジャズのカリスマ、マイルス人脈から信任を得たのが奏功してか、頑なだったジャズ・ファンも、急速に注目度を上げるクロスオーヴァーの寵児の影響を、黙って容認するしかなかったに違いない。

鈴木宏昌
『ハイ・フライング』
1976年発売
かくしてコルゲンの’76年のリーダー作『ハイ・フライング』は、稲垣次郎プロデュース、ザ・プレイヤーズの前身に当たるコルゲン・バンド界隈と深町、高中、芳野藤丸らロック系人脈をも巻き込んだ、フュージョン前夜の快作に。その深町もブレッカー・ブラザーズら日米のジャズ、ロック・プレイヤーたちが入り乱れる『スパイラル・ステップス』を発表した。また在米組である中村照夫のニューヨーク録音作『ライジング・サン』、帰国直後の益田幹夫『ミッキーズ・マウス』、海外で評価が高い鈴木弘(tb)のジャズ・ファンク名盤『キャット』もこの年のリリース。川崎燎に至っては、『プリズム』『エイト・マイル・ロード』『ジュース』と、年3枚のアルバムを量産している。それは言わば、ジャンルや人種、国籍が全てまとめてメルティング・ポットに放り込まれ、グツグツと煮立てられている印象。これが翌’77年になると、よりシッカリしたクロスオーヴァー作品が、国内のシーンから続々登場してくるのである。
(【Part2】に続く)


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【Part2】 ジャパニーズ・フュージョン黄金期のおとずれ|ジャパニーズ・フュージョンSTORY
解説
2025.6.11