アネックス|Motoharu Sano 45

【Part1】1980-1983|Motoharu Sano 45

2025.4.21



Motoharu Sano 45


HISTORY●佐野元春ヒストリー~ファクト❶1980-1983



文/斉藤鉄平




都市における日本語ロックの更新

 常に変容し多義的な佐野元春の音楽、あるいは45年にわたるキャリアを、特定のジャンルにカテゴライズすることは不可能だ。しかし1980年から’83年までの最初期の4年間にあえて名前をつけるならば、「都市における日本語ロックの更新」ということになるのではないか。日本語による、都市を舞台としたロック、ポップソング。その筆頭はもちろん、大瀧詠一、細野晴臣、松本隆、鈴木茂からなるはっぴいえんどだろう。いわゆる団塊の世代にあたる1950年前後に生まれ、’70年にデビューした彼らを第一世代とするならば、’56年生まれ、’80年にデビューした佐野はその第二、第三世代にあたる。はっぴいえんどについて「知的すぎる」と語っていた佐野(*1)にそうした自覚はなかったかもしれないが、はっぴいえんどやティン・パン・アレイといった先達が描いた軌跡と時に交じり、時に離れながら、東京という街における日本語のポップ・ミュージックを発展させてきたことが、『BACK TO THE STREET』から『SOMEDAY』に至るまでのディスコグラフィのひとつの側面であり、ポップ・ミュージック史における大きな意義と言えるだろう。

佐野元春の登場まで

 佐野が音楽活動を始めたのは高校生の頃。バックレイン元春セクションというグループがその出発点である。立教大学在学中には、中島みゆきや世良公則、CHAGE&ASKAを輩出したヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に、後に『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』(’82年)に収録される「Bye Bye C-Boy」で参加し、関東甲信越地区の代表となっている。なお、同年のコンテストには共にナイアガラ・トライアングルに参加することになる杉真理もエントリーしていた。佐野の作曲センスに驚いた杉が「持ち曲はいくつあるのか」と尋ねたところ「600曲」と答え、それを真に受けた杉を驚かせたという逸話が残っている(*2)。在学中のデビューには至らなかったものの、友人である佐藤奈々子の名盤『Funny Walkin’』(’77年)への参加をはじめ、プロの世界での音楽活動を経験している。大学卒業後は広告代理店へ就職。FMラジオ番組の制作を担当し、海外での取材活動なども行ったという。この社会人としての経験はおそらく、後の雑誌『THIS』の立ち上げやラジオDJとしての活動に活かされていくことになる。またこの社会人としての経験は、佐野がソロ・アーティストとして音楽産業で生き抜いていくための一助となったのかもしれない。

 デビューのきっかけとなったのは、後にEPICソニーのプロデューサーとして一時代を築く小坂洋二が、全国から集めたデモテープの中から、佐野の「彼女」「Do What You Like」と名付けられた楽曲に魅入られたことによる。小坂はすぐさま佐野とコンタクトを取り「2曲聞いた。2曲しか知らないけど、キミのレコードを作ってみたい」と伝えた(*3)と思いを伝えたという。しかし当時は「斜に構えた若者だった」という佐野はいわゆる業界人に対して懐疑的で、小坂の評価にも「こんなもんじゃないぜと思っていた」(*1)そうだが、’80年・24歳でのメジャーデビューが決定する。24歳でのデビューは現代の感覚ではむしろ早いくらいに思われるが、当時としてはやや遅咲きと感じられるものだった。まだフリーターという言葉もなかった時代、大学を出てからも夢を追い続けることに対する風当たりが厳しかったのかもしれない。

1980年、デビュー曲「アンジェリーナ」の衝撃

 ここで佐野がデビューした1980年前後の音楽シーンを振り返ってみたい。音楽業界の主流である歌謡曲の世界では、松田聖子、田原俊彦、近藤真彦がデビュー。後のアイドル全盛時代を予感させる。一方、YMOが前年リリースの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(’79年)をはじめ三作を年間アルバムチャートに送り込み、「いとしのエリー」(’79年)で知名度を高めたサザンオールスターズは『タイニイ・バブルス』(’80年)でチャート一位を獲得。またRCサクセションが「雨上がりの夜空に」(’80年)、山下達郎が『RIDE ON TIME』(’80年)でヒットの兆しをつかみかけていた。音楽産業のプロフェッショナルたちが作り出す歌謡曲と、サブカルチャーの文脈から生まれてきたパーソナルなアート・フォームがチャートを分け合い、時に侵食し合う構図が生まれつつあった。


シングル「アンジェリーナ」

佐野元春
シングル「アンジェリーナ」

1980年3月21日発売


 もちろん佐野のアティテュードは後者であり、’80年3月21日にリリースされたデビュー曲「アンジェリーナ」は桑田佳祐、忌野清志郎、そして山下達郎らと並んで、新しい時代を拓いていく才能であることを確信させる発明だった。エディ・コクラン的なロックンロールのリフをパンク/ニューウェーブのスピード感によって蘇らせ、オーディエンスのハートをマシンガンのような言葉で撃ち抜いていく。<シャンデリアの街で眠れずに>から<夜の闇の中消えてゆく>という最初の16小節の歌詞に組み込まれた押韻の数は(筆者のカウントで)5つ以上。名詞のほとんどは英語。大ヒットには至らなかったものの、佐野元春が何者であるかを知らしめるには十分な4分間だったと言えるだろう。

 こうしたエッジーな音楽を世に送り出すことができた背景には、所属レコード会社であるEPICソニーの姿勢があった。’78年に設立されたばかりの同社は、芸能界のヒエラルキーと慣習に辟易としていた初代社長の丸山茂雄が「これからはロックの時代だ」という方針を掲げる若いレコード会社だった。佐野元春はその方針を形にしてみせた最初にして最大の象徴だったと言える。佐野は当時のEPICソニーについて「発想がユニークだったし、何よりもレーベル自体がメインストリームに対して反抗的だった。オルタナティブなやり方でメインストリームを塗り替えようという意思が感じられた」(*2)と振り返っている。一方、音楽業界を離れた後もゲームの世界でソニーPlayStationなどを送り出す名経営者として活躍した丸山は、2022年に日本経済新聞で連載した「私の履歴書」において、レーベルを支えたアーティストとして佐野の名前を真っ先にあげている。

1980年、ファースト・アルバム『BACK TO THE STREET』登場


『BACK TO THE STREET』

佐野元春
『BACK TO THE STREET』

1980年4月21日発売


 「アンジェリーナ」のリリースから一か月後、4月21日にはファースト・アルバム『BACK TO THE STREET』がリリースされた。プロデューサーは小坂洋二と佐藤文彦。作詞・作曲はもちろん全て佐野によるもの。そしてアレンジは全10曲中、後に大江千里や渡辺美里らを手がけEPICソニーサウンドを確立する大村雅朗が5曲、ザ・ハートランドの初代ギタリストにして佐野の盟友である伊藤銀次が4曲を手がけている。アルバムの口火を切る「夜のスウィンガー」の炎のようなロックンロール・ナンバー、1950年代のバブルガム・ポップ的なセンスを見せる「ビートでジャンプ」、モッズ風R&B「プリーズ・ドント・テル・ミー・ア・ライ」なども含め、楽曲のスタイルは様々。しかし全曲に共通していることは、メロディ、歌詞、演奏の全てにおいて、歌謡曲的なメランコリーが感じられない点にあるだろう。日本という風土が内包する湿度から完全に解き放たれた音楽、と言い換えてもいい。例えば60年代後半に日本を席巻したGSブームで活躍したグループが、あるいは70年代の革ジャンにリーゼントをトレードマークにした不良のロックバンドが、ビートルズやストーンズを手本としながらも、職業作曲家が書いたメロディや情緒的な歌詞から完全に脱却していなかったことを思えば、佐野の革新性は明らかである。海外の音楽のスタイルだけではなく、そのグルーヴやポップネスまで完全に内面化した佐野という才能と、歌謡曲から決別し、新しい日本のロックを世に送り出すことを命題としたEPICソニーの姿勢が組み合わさったからこそ開くことのできた新しい扉と言える。

 そして本作の最も大きな意義はいうまでもなく、はっぴいえんど以来の「日本語を、どうやってロックのビートに乗せるか」という永遠のテーマに、新たな回答を出したことである。<シャンデリアの街で眠れずに トランジスタラジオでブガルー>というフレーズに代表される、字余り気味に言葉を詰め込み、膨大な情報量をもって聴く者の聴覚と街をまなざす視覚すらも塗り替えていくような感覚や、日本と海外の垣根を壊す外来語の多用。これらはもちろん、佐野自身が作り出したメロディやビートからの要請によるものなのだろう。しかしその手法が、’79年に『風の歌を聴け』でデビューした村上春樹や『コインロッカー・ベイビーズ』(’80年)を発表した村上龍が生み出した、文学界で生まれた新しい文体と呼応していた点や、音楽を部屋からストリートへと解放したソニーのポータブルオーディオプレイヤー、ウォークマンが発売された年と重なったという事実に、ひとりのアーティストの思惑を超えた、何かしらの必然を感じないわけにはいかない。

 さらに2025年の観点で歌詞を読み込んでみると、45年前の時点で「男らしさ」という呪縛を克服していることにも気づく。ロックンロールのダイナミズムと若者ならではの野生を感じさせつつも、マッチョから遠く離れた、ある種のジェントルネスに貫かれているのである。男女雇用機会均等法も存在せず、男女の役割が固定的かつ封建的であった’80年。歌謡曲、ロックといったジャンルを問わずポップソングもまた当然に、そうしたいわゆる昭和の空気を色濃く反映していた。例えば稀代のヒットメーカー・阿久悠が’79年に沢田研二へ提供した「カサブランカ・ダンディ」では、女性への愛情表現の手段としての暴力が懐古されていた。あるいはさだまさしの「関白宣言」は背景に家父長制という常識がなければ成立しない歌詞である。いずれも現代の感覚で楽しむためには、価値観の違いを理解しておく必要がある。しかし佐野の歌詞はそうした注釈を必要としない。例えば「さよならベイブ」などは、男女の対等なコミュニケーションやパートナーシップを求めているように感じられるし、グリッターな女性を描写した「Do What You Like」でも、彼女の自由な生き様に心を惹かれていることが伺われる。この所有欲や主従関係を感じさせないモダンでフェアな感性は、佐野の楽曲が時代を超えて聴き継がれ、今なお新しいリスナーを獲得していく上で重要なポイントだったと言えるだろう。



▲1980年、新宿のライヴハウス、ルイードにて


 佐野元春というアーティストの原型をかたどったファースト・アルバム『BACK TO THE STREET』だったが、大きなセールスを記録することはなかった。斬新な言語感覚やロックとポップスを自由に往来する多義的な作風は、当時の評論家やメディアからは分かりづらいものとして受け止められたのである。佐野自身も後年「当時は音楽的に若干まとまりがなかった」と語っているものの(*4)、やはりこの未知の音楽を言語化するには広範なポップ・ミュージックに関する知識と、何よりも新しい冒険に対する好奇心が、批評家にも求められていたのだろう。かつてのはっぴいえんどや後に「東京の音楽」を変革するフリッパーズ・ギターを見れば分かるように、ある種のアーティストは聴く者を前衛と後衛に否応なく分断してしまうものなのだ。

 しかしそんな佐野の先進性に着目したひとりが、大ヒット曲「TOKIO」で何度目かのピークを迎えていたスター・沢田研二である。伊藤銀次がプロデュースした’80年12月リリースのアルバム『G.S I LOVE YOU』において、加瀬邦彦、かまやつひろしといったビッグネームに混じり、まだ無名の新人だった佐野の楽曲を3曲も(「彼女はデリケート」「ヴァニティ・ファクトリー」「アイム・イン・ブルー」)採用している。佐野は沢田のためにスタジオで仮歌を録音したが、沢田をはじめスタジオに揃った音楽業界の大物たちに「いっちょ佐野元春っていうのを見せてやるぜという気持ちで張り切った」(*1)という身振り手振りを交えたパフォーマンスでバンドメンバーを盛り上げ、よりワイルドな演奏へ導いていった。その結果、沢田が歌う「彼女はデリケート」は当時の佐野のライヴを彷彿とさせる、ラフで向こうみずな疾走感が感じられる。



▲1980年、新宿のライヴハウス、ルイードにて


 スタジオでの制作と並行して、佐野は1980年8月から翌年の12月まで、新宿ルイードでマンスリー・ライヴ活動を行っていた。初回の動員は関係者を入れても20人ほどだったが、噂が噂を呼び、最終的にはライヴハウスに入りきらないほどまでに膨らんだという。当時のルイードにはTHE MODS、ロッカーズ、ルースターズといった気鋭の、そしてメインストリームの外にいるロックバンドが数多く出演しており、佐野も彼らにシンパシーを感じていたという。その影響か、佐野のパフォーマンスも熱を帯びたものだったようで、「机の上に立って天井の電球を割った」「振動で階下の天井から埃が落ちてきた」といった数々の逸話が残されている。そしてこの助走期間を経て、’81年10月6日、初のワンマン・ライヴ<ハートランドへようこそ>を横浜教育会館で開催。これに合わせて以降の活動を共にする、ザ・ハートランドが結成された。メンバーはスタジオワークも共にしてきた伊藤銀次(G)、阿部吉剛(Key)、ダディ柴田(Sax)小野田清文(Ba)、古田たかし(Dr)の5名だった。


『HEARTBEAT』

佐野元春
『HEARTBEAT』

1981年2月25日発売


1981年、セカンド・アルバム『HEARTBEAT』発表

 1981年2月25日にセカンド・アルバム『HEARTBEAT』がリリース。プロデュースは佐野元春とレコーディング・エンジニアを務めた伊藤俊郎。アレンジには伊藤銀次が6曲、大村雅朗が3曲参加している。ファースト・アルバム『BACK TO THE STREET』からの変化は、特にメロディラインにおいて顕著である。「ガラスのジェネレーション」「彼女」「悲しきRADIO」に「君をさがしている(朝が来るまで)」など、タイトルを見ただけで頭の中でメロディが鮮やかに再生されるようなナンバーが数多く収録されている。しかし楽曲を思い浮かべた時、頭の中で再生されるのは決して歌だけではなく、ピアノやギター、サックスのフレーズもセットになっているはずだ。つまり、前作と同様にリズム・ミュージックとしての魅力も大きいものになっており、いわゆるソングブック的な作品とは一線を画している。特に佐野が「ポップスの百科事典」(*5)とまで呼んだ伊藤銀次がアレンジを手がけた「ガラスのジェネレーション」、「ナイトライフ」「悲しきRADIO」などは、歌詞とメロディと不可分の輝きがバンドのアンサンブルに宿っている。そして前作で成し遂げた日本語ロックの更新も継続しており、より尖度と強度を高めたフレーズで新しい時代のリスナーのハートを貫いた。


「ガラスのジェネレーション」

佐野元春
「ガラスのジェネレーション」

1980年10月21日発売


「つまらない大人にはなりたくない」

佐野元春 & THE COYOTE BAND
「つまらない大人にはなりたくない」

2025年1月17日配信


 その象徴はもちろん、「ガラスのジェネレーション」のあまりにも有名な一節<つまらない大人にはなりたくない>だろう。多感なリスナーの葛藤を代弁すると共に、日本全体が80年代という新しいディケイドを進んでいこうとする空気をも封じ込めたフレーズは、2025年3月に発表された自らのクラシックを再定義するアルバム『HAYABUSA JET Ⅰ』において、楽曲のタイトルとなった。最新型のサウンドをまとったこの曲は、より不確実でタフな2020年代を生きるキッズへのメッセージであると共に、その永遠性を検証するチャレンジでもあるのだろう。


『HAYABUSA JET Ⅰ』

佐野元春 & THE COYOTE BAND
『HAYABUSA JET Ⅰ』

2025年3月12日発売


 ところで80年代前半といえば、今で言うところのシティポップ全盛の時代でもあった。大瀧詠一『A LONG VACATION』(’81年)、山下達郎『FOR YOU』(’82年)をその頂点として、都会的でカラフルな音像を持った作品が多く発表された。シティポップという単語そのものは当時存在しなかったものの、そうした作品は若者の都会や高度資本主義に対する憧憬を喚起することで、ひとつのジャンルとして成立しつつあった。2010年代以降の世界的なブームの象徴とされる松原みき「真夜中のドア〜Stay wit me〜」のリリースは’79年。EPOがシティポップの始祖とも言われるシュガーベイブの「DOWN TOWN」のカバーをリリースしたのが’80年である。

 「都会的洗練」というものをシティポップの定義とするならば、佐野の初期作、特にポップなメロディとビートを持つセカンド・アルバム『ハートビート』などは十分に満たしているようにも思うが、その文脈で語られることは多くない。やはりシティポップというジャンルにおいては、ある種の「匿名性」が求められているということなのだろう。具体的に言い換えると、プロフェッショナルなスタジオ・ミュージシャンによる感情を排除した均質的で定型的な演奏と、スムーズなボーカルや現実と遊離した世界観が求められていたのである。佐野が「アンジェリーナ」の録音時に、高橋ゲタ夫と島村英二という一流のスタジオ・ミュージシャンによるプロフェッショナルな演奏になかなかOKを出さなかったというエピソードに現れているように、彼の作品は歌詞とメロディはもちろん、演奏においても強いオリジナリティと経年によっても均されることのない情熱が込められた、極めて記名性が高いものであった。佐野自身はシティポップについて「都会的ではあったけど、都会の音楽には聞こえなかった」(*1)と語っているが、外から見た都会への憧憬を音楽として表現したシティポップは、ジャズ喫茶を経営する母親のもとで育った生粋のシティボーイである佐野にとってリアルではなかったということなのかもしれない。

『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』とウォール・オブ・サウンド

 しかしそんな佐野に大きな転機が訪れる。日本語ロックの大家にして、シティポップのアイコン・大瀧詠一とのコラボレーションである。2010年に発行された別冊カドカワに大瀧が寄稿した文章によると、ふたりの出会いは’80年9月。大瀧のトークショーに佐野が訪れ、意気投合したことだった。そして’81年7月新宿ルイードで行われたイベントにゲスト参加した大瀧が、佐野と杉真理にステージ上でオファーしたところから『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』のプロジェクトがスタートした。大瀧が佐野に白羽の矢を立てた理由は資生堂のCMソングとなった「A面で恋をして」を〈スペクター・サウンドのバディ・ホリー〉に仕立てるというイメージが浮かんだからだという。同曲のヒットを受けて制作されたアルバム『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』の全13曲中、佐野のペンによる楽曲は4曲。その中で「マンハッタンブリッヂでたたずんで」は自らの次作に収録しようと思っていた佐野を、大瀧が説き伏せて録音したというエピソードが残されている。前述の大瀧の文章によると、ナイアガラにどうしても収録したいと思った理由は、この曲こそが「はっぴいえんどを反面教師としたという佐野の独自色が出ている曲」であり、これこそナイアガラ・プロジェクトというメジャーなフィールドで展開されるべきと考えたからだという。’82年3月21日にリリースされた本作はアルバム・チャート2位を記録し、’82年年間ランキングでも10位に入る高セールスを記録。佐野の知名度は大きく向上した。


『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』

佐野元春/杉真理/大滝詠一
『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』

1982年3月21日発売


 しかし、佐野が大瀧から受けた直接的な影響は、ナイアガラ・プロジェクトよりも、その前年に伊藤銀次と共に見学したソニー六本木スタジオで行われていた『A LONG VACATION』のレコーディングの方が大きかったのかもしれない。「さらばシベリア鉄道」の録音のために並んだ数えきれないほどのギター、複数台のピアノ。それらの楽器を駆使したスケールの大きなサウンドは、佐野が追い求めていたフィル・スペクター・サウンドそのものだった。モニタースピーカーから流れる音に衝撃を受けた佐野は、早速ザ・ハートランドのメンバーを、小さなリハーサルスタジオに集め、伊藤銀次とギターのダビングを繰り返し、西本明と一台のピアノを同時に弾くなどの工夫を重ね、独自のウォール・オブ・サウンドを作り出すべく奮闘した。そしてそこで録音された一本のカセットテープが、佐野の代表曲の中の代表曲である「サムデイ」の原型となったのである。

 この「サムデイ」という楽曲を大まかに因数分解するならば、フィル・スペクター、ブライアン・ウィルソンから大瀧詠一まで引き継がれてきたウォール・オブ・サウンドと、ブルース・スプリングスティーンに代表されるモダンなポップス/ロックのエッセンスの融合ということになるが、それに加えて佐野による自らの文体の再更新があったことは見逃してはならない。

 例えば「アンジェリーナ」で見せた押韻や外来語の多用、「ガラスのジェネレーション」の<クレイジー・プリティ・フラミンゴ>というフレーズに代表されるビートニク的なイメージの拡張。こうした過去2作品における偉大な発明をいったん封印し、「サムデイ」の歌詞にはリスナーの目を正面から見据えた、真摯な言葉をつむいでいる。その象徴がサビ前に置かれた〈まごころがつかめるその日まで〉という一節だろう。1970年代の学生運動が沈静化し、シラケ世代と呼ばれる若者たちにとっては死語とも思える言葉を誰にでも聞き取れる発音で、しかもリズム・ミュージックとしても完璧な譜割りで歌うことで、新しい生命を吹き込んだのである。


「サムデイ」

佐野元春
「サムデイ」

1981年6月21日発売


 1981年6月25日にリリースされたこの4作目のシングルは、後に日本ロックを代表する一曲となるのは周知の通りだが、リリース時はチャート84位に留まった。しかしこの制作で自信を深めた佐野は来たるアルバムをセルフ・プロデュースすることと、そのヒットにアーティストとしての進退を賭けることを決意する。

 一方、佐野とハートランドは1982年1月から始まった初の全国ツアー<Welcome to the Heartland Tour>を開始する。オールスタンディングのライヴハウスが身近なものとなり、ロックフェスが世代を超えて定着した現代においては想像が難しいが、当時はホールで着席して聴くコンサートが当時のスタンダードであった。その中で毎晩ステージを駆け回り、スピーカーの上によじ登るような、熱狂的な彼らのパフォーマンスは各地のイベンターの話題となり、噂を聞きつけたキッズによって動員が徐々に増えていった。そもそもロックバンドが長期間に亘って全国をツアーをするというのも日本ではほとんど前例がなく、佐野はレコーディング作品以外でも音楽ビジネスに新しい風を吹きこんでいた。そして‘81年からはNHK-FMで『元春レイディオショー』の放送も始まり、徐々にヒットに向けた素地が出来上がっていった。


1982年、<Welcome to the Heartland Tour>にて


1982年、サード・アルバム『SOMEDAY』完成

 3作目となるアルバム『SOMEDAY』のレコーディングは、『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』とほぼ同時期に行われたが、本作の制作において大きな役割を果たしたのが、レコーディング・エンジニアの吉野金次だ。はっぴいえんど、矢野顕子、中島みゆきなど、数々の作品を手がけ、日本のロック、ポップスの黎明期を裏から支えた名匠である。沢田研二のレコーディングで吉野と知り合った佐野は、新宿ルイードでのライヴの翌日、痛めた足を引きずって吉野を訪れ、次作への参加を依頼したという。そしてその時、佐野のポケットの中には、小さなリハーサルスタジオでハートランドのメンバーと共に録音した、あのカセットテープが入っていた。それを聴いた吉野はその場でレコーディングへの参加を快諾した。

 吉野はこのレコーディングを振り返り、大滝詠一さんとの仕事は完成度がすべてで、それに向かって作り上げていく面白さがあるけど、佐野さんの場合にはその瞬間の即興性を生かしたミックスができた、と語っている。エフェクターの種類も少なかった時代、ビルの非常階段にスピーカーとマイクを置いて作り出したエコーを使った「ロックンロール・ナイト」の録音や実際に雑踏の音をコラージュした「サムデイ」のイントロなどもその表れだろう。「佐野さんは既成の枠の中では表現しきれない狂気を持っているアーティストだから、こちらもはみ出すことを恐れてはいけないんです」(*6)と言うように、空間的な広がりと遠近感を駆使したサウンドは斬新でありながらも、ゲート・リバーブを駆使した80年代風のデジタルサウンドとも全く異なる、佐野とバンドの躍動を生き生きとした記録したものとなっている。過去2作、初めてのレコーディング・スタジオに胸を躍らせつつ、自分のイメージ通りの音が作れないことにフラストレーションを溜めていた佐野にとっては、吉野とのコラボレーションは大いなる喜びだったに違いない。


『SOMEDAY』

佐野元春
『SOMEDAY』

1982年5月21日発売


 また、前作までは一流のスタジオ・ミュージシャンを集めて録音した演奏を、数多くのライヴを共にしてきたザ・ハートランドのメンバーと共に取り組むことができたことも、佐野の無尽蔵なアイデアを余すことなく形にしていく上では重要だった。特に古田たかしがドラマーとして固定できたことは大きなポイントだったと、本作の共同プロデューサーを務めた伊藤銀次は振り返る。そして佐野自身のソングライティングは、これまでの二作におけるチャレンジをさらに発展させている。

 日本語によるグルーヴの追求としての「ハッピーマン」、ストーリーテリングの要素を持ち込んだ「ダウンタウンボーイ」や「ロックンロール・ナイト」、大村雅朗のストリングスアレンジが映える「麗しのドンナ・アンナ」。そして最後にさりげなく差し込まれる「サンチャイルドは僕の友達」のイマジナリーな世界観。デビューからの3年間に追求してきた方法論、学んできた技術、そして想像力の全てを、ソングライティングとサウンド・プロデュースに注ぎ込んだ。過酷で長いレコーディングを全て終えた徹夜明けの朝、ディレクターの小坂洋二に「東京の片隅のこのスタジオでこんな素敵なアルバムができたことを、世界中は知っているのかな?」(*7)と佐野が語りかけたというエピソードは、このどこまでもロマンチックで貪欲な本作に、あまりにも似つかわしい。ちなみにレコードに封入されたブックレットは、通常の12インチサイズをはるかに上まわるサイズとなっており、折りたたむと48ページにもわたるポケット・ブックになっている。その先鋭的なデザインと詳細な内容からは、佐野元春というアーティストの魅力を余すことなく伝えようとするレコード会社の力の入れ方が伝わってくる。

 こうして1982年5月21日にリリースされたアルバムはチャートで過去最高4位を記録。ついに初のヒット作となった。そのヒットの要因はここまで見てきたように、ナイアガラ・トライアングルへの参加やライヴツアー、ラジオ番組などがあってのことだったのかもしれない。しかし、テレビドラマや映画、CMのタイアップもなかった作品が時代を象徴する一枚となり、今に至るまで聴き継がれることになったのは、やはり楽曲そのものの力と、それに触れたリスナーの熱い思いによるものだったのだろう。


1982~1983年、<Rock & Roll Night Tour>にて


渡米、コンピレーション『NO DAMAGE』

 1982年9月。佐野とキーボードに西本明を迎えたザ・ハートランドは再び半年にも及ぶ<Rock & Roll Night Tour>に出る。『SOMEDAY』のヒットを受け、各地でソールドアウトが続出し、最終公演となった1983年3月18日の中野サンプラザでのライヴももちろん満員。名実ともに人気アーティストの仲間入りを果たした佐野だったが、この日のアンコールのMCで、無期限でニューヨークへ渡ることを突然発表する。その瞬間は2013年にリリースされたライヴアルバム『ROCK & ROLL NIGHT LIVE AT THE SUNPLAZA 1983』に収録されているが、ファンの悲鳴が飛び交う中、ピアノの弾き語りで歌われた新曲「グッドバイからはじめよう」が歌われた。この曲そのものが、しばしの別れの挨拶としてあらかじめ準備されたものだったのだろう。この日のライヴ終演後、佐野は会場に残ったファン一人ひとりと言葉を交わしていたという。


『SOMEDAY』

佐野元春 with THE HEARTLAND
『ROCK & ROLL NIGHT LIVE AT THE SUNPLAZA 1983』

2013年配信


 この突然の発表から一ヶ月後の1983年4月21日、佐野にとって初のベストアルバムとなる『NO DAMAGE(14のありふれたチャイム達)』が発売される。ヒットシングルを受けてレコード会社が編集盤をリリースするというのは音楽ビジネスにおける常道ではあるが、このアルバムはいわゆるベスト盤とは異なり、佐野の最新モードを表現した新作という印象が強い。その理由の一つはコンセプチュアルな選曲にある。レコードのA面を〈Boy’s Life Side〉、B面を〈Girl’s Life Side〉と名付けて選ばれた楽曲は全14曲。もちろん「サムデイ」、「ガラスのジェネレーション」に「アンジェリーナ」といったシングルも選ばれているが、一曲目の「スターダスト・キッズ」をはじめこれまでの3枚のアルバムには収められなかった楽曲が数多く収録されている。中でも最新シングル「グッドバイからはじめよう」のB面曲である「モリソンは朝、空港で」のジョン・レノンとブライアン・ウィルソンが共存したようなソフトロック的サウンドは、隠れた代表曲と呼びたくなる美しさだ。こうした楽曲たちが、既発の代表曲に新たな光を与えている。


「サムデイ」

佐野元春
「グッドバイからはじめよう」

1983年3月25日発売



『NO DAMAGE 14のありふれたチャイム達』

佐野元春
『NO DAMAGE 14のありふれたチャイム達

1983年4月21日発売


 そしてもうひとつの理由は、そのアートワークにあるだろう。シティポップ的な虚飾とも、ロックンロールのワイルドネスとも異なるクールなコラージュ。Yシャツにネクタイ、眼鏡をかけて知的な眼差しをカメラに向ける佐野の姿は、これが新しい価値観を持ったジェネレーションのための音楽であることを強く印象付ける。さらに言えば、このビジュアル・イメージが、大江千里や岡村靖幸など、この後に続くEPICソニーのアーティスト全体の基調となったといってもいいだろう。本作は佐野元春にとって初めてのチャート1位を獲得するが、彼はそのニュースをニューヨークの地で知ることになる。


『FILM NO DAMAGE』

佐野元春 with THE HEARTLAND
『FILM NO DAMAGE』

2018年10月24日発売
▲1983年公開の歴史的音楽ドキュメント映像作品のパッケージ再発


 そして佐野のキャリア最初期を締めくくる上で重要な作品は、渡米後の1983年7月に全国の映画館で上映された映画『FILM NO DAMAGE』だ。日本の音楽映像作家の第一人者である井出情児が監督したライヴ・ドキュメンタリー作品は、同じく彼が撮影したYMOの映像作品『YMO FILM PROPAGANDA』よりも約1年前に公開されていることからも分かるように、日本初の長編音楽ドキュメンタリー作品と呼ぶことができるだろう。まだ日本国内ではMTVも普及しておらず、アーティストがミュージックビデオを制作することも一般的ではなかった時代に発表された本作は、音楽作品やライヴパフォーマンスはもちろん、そして映像においても佐野元春が日本の音楽シーンを更新したことの表れでもあり、また音楽がYoutubeやTikTokといった映像メディアと不可分になる2020年代を予見していたようでもある。

(【Part2】佐野元春ヒストリー~ファクト❷1984-1989に続く)

発言出典一覧(発売元は当時表記)

1)『EPICソニーとその時代』スージー鈴木・著(2021年/集英社新書)
2)『別冊カドカワ 総力特集 佐野元春』(2010年/角川書店)
3)佐野元春・編『THIS』Vol.4(1984年/CBS・ソニー出版)
4)『ミュージック・マガジン』 2021年6月号(2021年/ミュージック・マガジン)
5)MWS https://www.moto.co.jp/works/album/ESCB1321.html
6)SOMEDAY 20周年特集ウェブサイト https://www.moto.co.jp/SOMEDAY/wire/04.html
7)SOMEDAY 20周年特集ウェブサイト https://www.moto.co.jp/SOMEDAY/wire/06.html




DISCOGRAPHY●佐野元春ディスコグラフィ❶1980-1983



ジャケット撮影/島田香




  • アンジェリーナ

    SINGLE

    佐野元春
    アンジェリーナ

    1980年3月21日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]06・5H-31(1980.3.21)

    Side A アンジェリーナ Side B さよならベイブ




  • バック・トゥ・ザ・ストリート

    STUDIO ALBUM

    佐野元春
    バック・トゥ・ザ・ストリート|BACK TO THE STREET

    1980年4月21日発売/EPICソニー

    [LP]25・3H-19(1980.4.21)[CT]25・6H-8(1986.6.1)[CD]35・8H-13(1984.6.21)[CT]25・6H-5094(1989.6.1)[CD]27・8H-5094(1989.6.1)[CD]ESCB 1320(1992.9.1)[紙ジャケCD]MHCL 701(2005.12.21)[Blu-spec CD2]MHCL-30001(2013.2.20)[LP]MHJL 2(2016.12.21)*アニヴァーサリー盤は別途



    01. 夜のスウィンガー Night Swinger
    02. ビートでジャンプ The Beat City
    03. 情けない週末 Rainy Day Weekend
    04. プリーズ・ドント・テル・ミー・ア・ライ Please Don’t Tell Me A Lie
    05. グッドタイムズ&バッドタイムズ Good Times & Bad Times
    06. アンジェリーナ Angelina
    07. さよならベイブ Sayonara Baby
    08. バッド・ガール Bad Girl
    09. バック・トゥ・ザ・ストリート Back To The Street
    10. ドゥー・ホワット・ユー・ライク(勝手にしなよ) Do What You Like


    Produced by 小坂洋二、佐藤文彦
    Recorded & Mixed by 伊東俊郎
    Recorded at Freedom studio、TAKE ONE STUDIO TOKYO
    Cover photography by ヒロ伊藤

    Musicians
    ●佐野元春(Vo, G/M1~9)●島村英二(Ds)●上原裕(Ds/M1、2、4、9)●山木秀夫(Ds)●高橋ゲタ夫(B)●岡島ブン(B/M1、2、4、9)●荒川康夫(Wb)●伊藤銀次(G/M1、2、4、9)●矢島賢(G)●田代真紀(P)●板倉まさかず(P/M1、2、4、9)●羽田健太郎(P)●西本明(Key)●ジェイク・H・コンセプション(Sax/M1、2)●木村邦治(Perc/M1、2)●川島裕之(Horn)●eve(Cho)●山本翔(Cho/M9)

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  • ガラスのジェネレーション

    SINGLE

    佐野元春
    ガラスのジェネレーション

    1980年10月21日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-53(1980.10.21)

    Side A ガラスのジェネレーション Side B イッツ・オーライト




  • ハートビート|HEARTBEAT

    STUDIO ALBUM

    佐野元春
    ハートビート|HEARTBEAT

    1981年2月25日発売/EPICソニー

    [LP]27・3H-30(1981.2.25)[CT]27・6H-18(1981.4.21)[CD]35・8H-14(1984.6.21)[CT]25・6H-5095(1989.6.1)[CD]27・8H-5094(1989.6.1)[CD]ESCB 1321(1992.9.1)[紙ジャケCD]MHCL 702(2005.12.21)[Blu-spec CD2]MHCL-30002(2013.2.20)[LP]MHJL 3(2016.12.21)*アニヴァーサリー盤は別途



    01. ガラスのジェネレーション Crystal Generation
    02. ナイトライフ Night Life
    03. バルセロナの夜 A Night In Barcelona
    04. イッツ・オーライト It’s Alright
    05. 彼女 She
    06. 悲しきレイディオ Radio Radio
    07. グッド・バイブレーション Good Vibration
    08. 君をさがしている(朝が来るまで)Looking For You
    09. INTERLUDE Interlude
    10. ハートビート(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)Heart Beat


    Produced by 佐野元春、伊東俊郎
    Recorded & Mixed by 伊東俊郎
    Recorded at Freedom studio、TAKE ONE STUDIO TOKYO
    Cover photography by ヒロ伊藤

    Musicians
    ●THE HEARTLAND(M1、2、4、6、8、10)●佐野元春(Vo, G)●青木隆男(Ds)●牧田和男(B)●岸均(G)●西本明(Key)●伊藤銀次(Master)●THE OMURA SELECTED BAND(M3、7):●島村英二(Ds)●長岡道夫(B)●土方降行(G)●大村雅朗(Key、Master)●西本明(Key)●ジェイク・H・コンセプション(Sax)●平内保夫(Tb)●橋田正人(Perc)●なかやまて由希(Back Vo/M7)



  • ナイトライフ Night Life

    SINGLE

    佐野元春
    ナイトライフ Night Life

    1981年2月25日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-67(1981.2.25)

    Side A ナイトライフ Side B グッド・バイブレーション




  • サムデイ

    SINGLE

    佐野元春
    サムデイ

    1981年6月21日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-84(1981.6.21)

    Side A サムデイ Side B バイバイ・ハンディ・ラブ




  • ダウンタウンボーイ

    SINGLE

    佐野元春
    ダウンタウンボーイ

    1981年10月21日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-101(1981.10.21)

    Side A ダウンタウンボーイ Side B スターダスト・キッズ




  • NIAGARA TRIANGLE VOL.2

    STUDIO ALBUM

    佐野元春/杉真理/大滝詠一
    NIAGARA TRIANGLE VOL.2

    1982年3月21日発売/CBS・ソニー

    [LP]28AH-1441(1982.3.21)[CT]28KH 1130(1982.3.21)[CD]35DH 2(1982.10.1)[CD]27DH-5301(1989.6.1)[CD]CSCL 1662(1991.3.21)[20thCD]SRCL-5001(2002.3.21)[30thCD]SRCL-8002(2012.3.21)[40thVOX]SRCL 12300(2022.3.21)[40thCD]SRCL-12310(2022.3.21)[40thLP]SRJL 1235(2022.3.21)[SACD]SRGL 999(2022.8.3)*アニヴァーサリー盤を含む


    01. A面で恋をして
    02. 彼女はデリケート
    03. Bye Bye C-Boy
    04. マンハッタンブリッヂにたたずんで
    05. Nobody
    06. ガールフレンド
    07. 夢みる渚
    08. Love Her
    09. 週末の恋人たち
    10. オリーブの午后
    11. 白い港
    12. Water Color
    13. ♡じかけのオレンジ


    [SANO'S SIDE]M-2, 3, 4, 9
    Enginners:飯泉“TOPPY”俊之、水谷照也、中山大輔
    Assistant:坂元“SMILEY”達也
    Re-Mix Enginner:吉野金次
    Recorded at CBS/SONY Roppongi、TAKE ONE
    Direction:小坂洋二、早川隆、伊藤銀次
    Arranger:佐野元春
    (アルバムライナー表記より)

    Musicians
    ●佐野元春(Vo, Key, Cho)●山木秀夫(Ds)●島村英二(Ds)●小野田“diet”清文(EB)●荒川康男(WB)●村松邦男(EG)●今剛(EG)●土方隆行(EG, AG)●伊藤銀次(EG, Cho)●矢島賢(EG)●青山徹(AG)●谷康一(AG)●吉川忠英(AG)●安田裕美(AG)●笛吹利男(AG)●田代耕一郎(AG)●西本明(Key)●国吉良一(Key)●鳴島英治(Perc)●高杉登(Per)●柴田“daddy”久光(Per, Horns)●数原晋(Horns)●小林正弘(Horns)●プリティ・フラミンゴス(Cho)●蒲田野次馬ブラザース(Guest on M2)●The Heartland(Guest on M2)●Uncle Conel Thanders(Guest on M3)



  • 彼女はデリケート

    SINGLE

    佐野元春
    彼女はデリケート

    1982年3月21日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-110(1982.3.21)

    Side A 彼女はデリケート Side B こんな素敵な日には





  • SINGLE

    佐野元春
    シュガータイム Sugartime

    1982年4月21日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-115(1982.3.21)

    Side A シュガータイム Side B WONDERLAND<WALKMANのテーマ>




  • サムデイ|SOMEDAY

    STUDIO ALBUM

    佐野元春
    サムデイ|SOMEDAY

    1982年5月21日発売/EPICソニー

    [LP]28・3H-61(1982.5.21)[CT]25・6H-41(1982.5.21)[CD]35・8H-2(1982.10.1)[CT]25・6H-5096(1989.6.1)[CD]27・8H-5096(1989.6.1)[CD]ESCB 1322(1992.9.1)[紙ジャケCD]MHCL 703(2005.12.21)[Blu-spec CD2]MHCL-30003(2013.2.20)[LP]MHJL 4(2016.12.21)*アニヴァーサリー盤は別途



    01. シュガータイム Sugartime
    02. ハッピーマン Happy Man
    03. ダウンタウンボーイ Down Town Boy
    04. 二人のバースデイ Birthday Song
    05. 麗しのドンナ・アンナ Believe In You
    06. サムデイ Someday
    07. アイム・イン・ブルー I’m In Blue
    08. 真夜中に清めて Midnight Tripper
    09. ヴァニティ・ファクトリー Vanity Factory
    10. ロックンロール・ナイト Rock & Roll Night
    11. サンチャイルドは僕の友達 Sunchild


    Produced by 佐野元春、伊藤銀次(Co-Producer)
    Recorded by 飯泉俊之、水谷輝也、中山大輔、坂元達也、深田晃、吉野金次
    Mixed by 吉野金次
    Recorded at CBS/SONY ROPPONGI、TAKE ONE STUDIO TOKYO
    Cover photography by 三浦憲治

    Musicians
    ●佐野元春(Vo, G)●伊藤銀次(G/M4、Cho/M7、8、11)●古田たかし(Ds/M6、10)●小野田清文(B/M1〜10 Kick/M11)●西本明(Key/M1〜11)●阿部吉剛(Key/M10)●柴田久光(Sax/M2、3、4、6、9、10、Per/M5)●The Heartland(Cho/M2、10)

    Guest
    ●島村英二(Ds/M1、2、4、5、7、9)●上原裕(Ds/M3)●林立夫(Ds/M8)●荒川康男(Wb/M5)●稲葉国光(Wb/M10)●矢島賢(G/M1、3、5、7、10)●土方隆行(G/M2、9)●今剛(G/M2)●安田裕美(G/M3、5、6、8、10)●田代耕一郎(G/M3)●吉川忠英(G/
    M5、6、8、10)●青山徹(G/M5、6、10)●谷康一(G/M-5、10)●国吉良一(Key/M5)●高杉登(Perc/M1〜7、9、10)●鳴島英治(Perc/M2、7、8、10)●木村邦治(perc/M10)●金山功(Timp/M6、10)●沢田研二(Cho/M9)●杉真理(Cho/M1)●下村誠(Cho/M2、10, Clap/M2)●千葉生也(Cho/M2、6、Clap/M2)●プリティ・フラミンゴス(Cho/M3、4、5、6)●東京ロイヤルストリングス(Str/M1、3、5、8)

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  • SINGLE

    佐野元春 with THE HEARTLAND
    ハッピーマン Happy Man

    1982年8月25日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-133(1982.8.25)

    Side A ハッピーマン Side B マンハッタンブリッヂにたたずんで





  • SINGLE

    佐野元春 with THE HEARTLAND
    スターダスト・キッズ Stardust Kids

    1982年11月21日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-140(1982.11.21)

    Side A スターダスト・キッズ Side B ソー・ヤング





  • SINGLE

    佐野元春
    グッドバイからはじめよう

    1983年3月25日発売/EPICソニー
    [7inch Vinyl]07・5H-150(1983.3.25)

    Side A グッドバイからはじめよう Side B モリスンは朝、空港で





  • COMPILATION

    佐野元春
    NO DAMAGE 14のありふれたチャイム達

    1983年4月21日発売/EPICソニー

    [LP]28・3H-81(1982.5.21)[CT]28・6H-71(1983.4.21)[CD]35・8H-6(1984.6.21)[CT]33・6H-80(1983.5.21)[CT]25・6H-5097(1989.6.1)[CD]27・8H-5097(1989.6.1)[CD]ESCB 1323(1992.9.1)[紙ジャケCD]MHCL 704(2005.12.21)*アニヴァーサリー盤は別途



    Boys’ Life Side
    01. スターダスト・キッズ Stardust Kids
    02. ガラスのジェネレーション Crystal Generation
    03. サムデイ Someday
    04. モリスンは朝、空港で Morrison
    05. イッツ・オーライト It’s Alright
    06. ハッピーマン Happy Man
    07. グッドバイからはじめよう The Beginning Of The End


    Girls’ Life Side
    08. アンジェリーナ Angelina
    09. ソー・ヤング So Young
    10. シュガータイム Sugartime
    11. 彼女はデリケート She’s So Delicate
    12. こんな素敵な日には On The Special Day
    13. 情けない週末 Rainy Day Weekend
    14. バイバイ・ハンディ・ラブ Bye Bye Handy Love


    Produced by 佐野元春(M1〜7)、大滝詠一(M11、12)、小坂洋二&佐藤文彦(M8、13)
    Recorded & Mixed by吉野金次、坂元達也
    Recorded at TAKE ONE STUDIO TOKYO
    Cover photography by 渡辺真也

    Musicians
    ●佐野元春(Vo, G)●伊藤銀次(G/M4、Cho/M7、8、11)●古田たかし(Ds/M6、10)●小野田清文(B/M1〜10 Kick/M11)●西本明(Key/M1〜11)●阿部吉剛(Key/M10)●柴田久光(Sax/M2、3、4、6、9、10、Per/M5)●The Heartland(Cho/M2、10)

    Guest
    ●島村英二(Ds/M1、2、4、5、7、9)●上原裕(Ds/M3)●林立夫(Ds/M8)●荒川康男(Wb/M5)●稲葉国光(Wb/M10)●矢島賢(G/M1、3、5、7、10)●土方隆行(G/M2、9)●今剛(G/M2)●安田裕美(G/M3、5、6、8、10)●田代耕一郎(G/M3)●吉川忠英(G/
    M5、6、8、10)●青山徹(G/M5、6、10)●谷康一(G/M-5、10)●国吉良一(Key/M5)●高杉登(Perc/M1〜7、9、10)●鳴島英治(Perc/M2、7、8、10)●木村邦治(perc/M10)●金山功(Timp/M6、10)●沢田研二(Cho/M9)●杉真理(Cho/M1)●下村誠(Cho/M2、10, Clap/M2)●千葉生也(Cho/M2、6、Clap/M2)●プリティ・フラミンゴス(Cho/M3、4、5、6)●東京ロイヤルストリングス(Str/M1、3、5、8)

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    ●上記ディスコグラフィ内の記載品番全てを撮影しているわけではありません。ご了承ください。







INTERVIEWS●佐野元春サウンドを鳴らした仲間たち❶



インタビュー・文/大谷隆之


1982~1983年、<Rock & Roll Night Tour>にて


佐野くんみたいなスピード感で日本語をビートに乗せられた人は誰もいなかった(銀次)


── 『伊藤銀次自伝 MY LIFE, POP LIFE』(シンコーミュージック)、遅ればせながら読ませていただきました。知らなかったエピソードが満載でとても面白かったです。

伊藤銀次 あ、本当に? どうもありがとう。

── 佐野さんとの思い出にも多くのページが割かれていますね。その部分を読むと、どこか青春小説にも似た手触りがあって。

伊藤銀次 そうかもしれない(笑)。なにせ出会ったときは、ふたりともまだ二十代でしたから。

── 銀次さんは最初、アレンジャーとして新人・佐野元春のレコードデビューに立ち会います。やがて自らもバンドの一員となり、地道なライヴを通してファンを増やしながら、共にスターダムへと駆け上がっていく。その中で銀次さんは、いわば経験豊富なアニキっぽい役回りで……。

伊藤銀次 まあ、あの頃はひたすら夢中で、そんなことを感じる余裕もなかったんだけれど(笑)。ただ仰るとおり、僕は佐野くんよりも6つ年上でしょう。その分いろいろ苦い経験もしてましたし。何より同じロックンロールを愛する人間として、彼みたいなアーティストが売れてくれれば世の中がもっと楽しくなる。もっと言うと、僕自身も好きな音楽をやりやすくなるなと。その意識は明確にあった気がします。だからやりがいも大きかったし。一緒に音楽を創るのが楽しかったんじゃないかな。

── 当時の関わりについて、本日は改めていろいろ伺えればと。これも少し意外だったのですが、銀次さんが佐野さんのレコーディングに参加したきっかけは、松原みきさんだったとか。

伊藤銀次 これもまったくの偶然でね。時系列で振り返りますと、僕がシュガー・ベイブを辞めたのが’75年。翌年、大瀧(詠一)さんの『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』があって。’77年には『DEADLY DRIVE』でソロデビューしたんです。ただ、このアルバムはあまり売れなくてね。しばらく知人から紹介してもらったCMの音楽で食いつないでました。実はこの仕事が、後にプロデュースやアレンジを手掛ける上で非常に役立ったんだけど。で、’79年に入ったあるとき、関係者の方から「今度、松原みきというアイドルがデビューするので、バックバンドのリーダーをしてくれませんか」というオファーをいただきまして。


▲「伊藤銀次が語るシュガー・ベイブ」を含むウェブマガジンotonano4月号・好評配信中!


── 松原さんは近年、日本のシティポップを代表するシンガーとして海外からも注目されています。’79年のデビュー当時はわりとアイドル的な存在だったんですね。

伊藤銀次 うん、事務所の打ち出しとしては。でも、デビュー曲「真夜中のドア〜Stay With Me」の音源を聴かせてもらって驚きました。林哲司さんが手がけた楽曲とアレンジが、ウエストコーストのAORの質感で。アイドルがこんな洗練された曲を歌うのかと。僕は70年代にさんざん苦労しましたけど、80年代を目前にして時代の潮目が変わってきたことを実感したわけです。それで喜んでリーダー兼ギタリストを引き受けた。アイドルに専属のバンドを付ける発想自体が、当時はまだ珍しかったんですよ。で、シングルの3枚目ではなぜか、普通なら呼ばれない制作会議にも参加させてもらって。

── 現場の意見を求められるようになったと。短期間で手腕を見込まれたんですね。

伊藤銀次 どうなんだろう、実際のところはわからないけれど(笑)。で、ある日の会議の帰り道。佐藤文彦さんという、みきちゃんの出版社ディレクターと方向が同じだったので、家まで送ってもらったんです。その車中で「今度こういう新人をデビューさせようと思ってるんです」とカーステで聴かせてもらったのが、すでにレコーディングされていた佐野くんのデビュー音源。「アンジェリーナ」と「さよならベイブ」の2曲だった。忘れもしません、ものすごい衝撃でした。


佐野元春
シングル「アンジェリーナ」
c/w「さよならベイブ」

1980年3月21日発売


── デビュー・シングル「アンジェリーナ」のリリースが’80年3月21日。銀次さんが聴かれたのは当然、それよりも前ですね。

伊藤銀次 ちょっと記憶が正確じゃないけど、たぶん’79年の年末だったんじゃないかな。いろんなところで話してますが、一番ぶっとんだのは「アンジェリーナ」の出だし。“シャンデリア”という単語がたったひとつの音に入っていたことでした。70年代初頭のはっぴいえんど以降、僕も含め多くのミュージシャンが日本語のロックに取り組んでいた。けれど佐野くんみたいなスピード感で、日本語をビートに乗せられた人は誰もいなかったのね。というのも英語と日本語では、そもそも音節の構造がまったく異なるじゃない?

── はい。日本語の音節は「あ・い・う・え・お」というように、基本的にひとつの音が1音節になっています。英語はそうではなく、たとえば「dog:ドッグ」「cat:キャット」という音の連なりでひとつの音節。しかも、その種類自体、日本語よりずっと多いとされていて。

伊藤銀次 そう。言うまでもなくロックは、英語圏で生まれたカルチャーですから。英語が持つ音の体系と、分かちがたく結びついている。これを日本語に移植する試み自体、根本的な矛盾をはらんでいるわけですね。はっぴいえんどのメンバーですら、最初はそんなことは不可能だと信じて疑わなかった。松本隆さんが「俺がやってみる」と言い出したときも、他の3人は仰天したそうです。これは僕が、大滝さんから直接伺った話。

才能とスター性を持った若者が市民権を得られなければ日本のポップロックに未来はないと思った(銀次)


── でもなぜ、デビュー前の佐野さんにはそれができたのでしょう。

伊藤銀次 これはもう、理屈ではなく直感じゃないかな。それまでの日本のソングライティングは、どこかで日本語の音節に引っ張られていた。でも「シャ・ン・デ・リ・ア」と言葉を分割する手法では、自分が好きなロックのグルーヴには永遠に到達できない。彼には最初からそれが見えていたんだと思います。これって要は、コロンブスの卵なんだよね。

── ああ、たしかに。

伊藤銀次 今の若い子にこの話をしたら、たぶん「そんなの当たり前でしょう」って怪訝な顔をされますよね。でもその発想で日本語のロックンロールを書き上げた人は、佐野くん以前には存在しなかった。松本隆さんがそうだったように、彼も日本語のロックに革命を起こしたわけです。さらにもうひとつ、「アンジェリーナ」と「さよならベイブ」のトーンがまるで違っていたのも、僕はすごいと感じた。

── 後にファースト・シングルのB面になる「さよならベイブ」は、ミドルテンポの洗練されたナンバーです。いかにも佐野さんらしい、都会的でメロウな雰囲気が漂っていて。

伊藤銀次 そうそう。僕流に言えば日本語版AORで、疾走感のある「アンジェリーナ」とはキャラクターがまったく違う。僕の周辺の仲間に聞かせると戸惑いながらこう言う人が多かった。「佐野元春というアーティストの持ち味は一体どっちなんだ」ってね。でも僕は、ビートルズで音楽にのめりこんだ人間ですから。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」ぐらい掛け離れた曲を1人で作れるって、一体何者なんだと。がぜん興味を掻き立てられた。



デビュー間もない頃の佐野元春と伊藤銀次(写真提供:伊藤銀次)


── その時点ではファースト・アルバム『BACK TO THE STREET』の制作は始まっていなかった?

伊藤銀次 まだだったと思う。デビュー・シングルとして録音された「アンジェリーナ」と「さよならベイブ」は、大村雅朗さんの編曲でした。言わずと知れた名匠ですが、あの方はキーボード系のアレンジャーなんですね。ストリングスやブラスのオーケストレーションには非常に長けておられる。でもその一方で、ストレートなロックンロールの経験値はあまり多くなかったんです。それでファースト・アルバム制作にあたって、そういったタイプの楽曲のアレンジを僕に頼めないかと。家に送ってもらう車の中で、佐藤ディレクターがそう声をかけてくれた。あれはすごく嬉しかったな。

── つまり松原さんのバックを務めていなかったら、佐野さんとの出会いもなかった。初対面の印象はいかがでしたか?

伊藤銀次 事前のイメージとはまるで違いましたね。場所はたしか、新宿のテイクワンスタジオだったと思う。「アンジェリーナ」の曲調から、僕は革ジャンとブーツ姿を勝手に想像してたんですけど(笑)。現れたのは、スーツをセンスよく着こなした青年だった。それもサラリーマン的な背広じゃなくてね。ジャケットの下にはTシャツを合わせて、ちょっと着崩した感じだったと思う。折り目正しく「佐野です」と挨拶されて驚いたのを覚えています。もうひとつ鮮明に覚えているのは、彼は初対面の僕に向かって、自分はマンフレッド・マンが大好きですと言ったんですよ。

── マンフレッド・マン。60年代に活躍したイギリスのビートバンドですね。

伊藤銀次 なんて絶妙なチョイスだなと思いました。というのも’69年に解散した彼らは、まさに僕にとってリアルタイムのバンドなんですよ。佐野くんは僕より6つも年下ですから。もしかすると大部分のヒット曲は、後追いで聴いたのかもしれない。日本ではビートルズほどメジャーな存在じゃないし、ましてや初対面で出てくる名前じゃありません。そういうフレンドリーな姿勢が僕は嬉しかったんですね。マンフレッド・マンを話題にすることで僕ら世代へのリスペクトを示しつつ、一緒に作りたい音楽の方向も示してくれたんだと感じた。同時に、この人の中にはすでに確固たる世界があるんだ、とも思いました。経験、テクニックは別としてね。

── なるほど。

伊藤銀次 僕が彼のやりたいことを理解しないかぎり、どんな提案してもまずうまくいかない。意に沿わないアレンジは断固として拒絶されるだろうと。そう直感しました。なので自分がすべき仕事は、まず佐野くんの中で鳴っているサウンドを的確に具現化すること。さらにはスタジオで、ミュージシャンにそれを正しく伝える手助けだと思ったんですね。だから最初の打ち合わせでは、とにかく五線紙をいっぱい用意して佐野くんの家まで出かけて行って、直接彼のイメージしている各パートのアレンジをたずねて、それを譜面にするところから始めました。(中野区)野方にあった彼の狭いワンルームで、ふたりで膝を突き合わせて。

── どういった雰囲気だったか覚えておられますか? 佐野さんの音楽的ボキャブラリーの豊かさを考えると、たとえば部屋中ところ狭しとアナログ盤が積み上がっていたとか?

伊藤銀次 いや、むしろ反対だったな。ぱっと目に入るのはピアノとギター、あとはメトロノームくらいしかなかったと思う。どちらかというと素っ気ない部屋でした。佐野くんって音楽への造詣は深いけど、いわゆるマニア気質じゃないんだよね。大事なのは楽曲そのものであって、レコード収集には興味がない。いい音楽は深く聴き込むけれど、それを栄養に自分で曲を作る方がもっと大事なんだよね。これについては僕も似たところがあるので、すごく理解できるんです。もうひとつ印象に残っているのは、洋楽のアルバムは輸入盤ではなく国内盤を買うと言ってたこと。輸入盤ってほら、値段は安いけど歌詞カードがなかったりするでしょ。でも佐野くんは最初から、言葉とビートの関係にすごく意識が向いてたんだと思う。ごめんなさい、ちょっと話が逸れちゃったけど(笑)。

── いえいえ。そういうやりとりも含めて、まさに青春映画を彷彿とさせる光景ですね。

伊藤銀次 はははは。たしかにアレンジの相談だけじゃなく、好きな音楽についていろいろ情報交換もして。あれで距離感がぐっと近づいた。話を元に戻すと、たとえば僕が「この曲のドラムはどんなイメージ?」って尋ねますよね。すると彼は即座に、“♪ドゥッダ、ドゥダドゥダ”みたいに自ら歌ってリズムを表現する。想像した通り、ほぼすべてのフレーズがすでに脳内で構築されてたんですね。それを僕が片っ端から譜面にしていった。そうやってアレンジを煮詰めていくと、たまに音と音が当たっちゃう箇所が出てくるじゃないですか。それを伝えると、佐野くんがまた「わかった、じゃあこれはどうかな?」と別のアイデアを出してきて。


『BACK TO THE STREET』

佐野元春
『BACK TO THE STREET』

1980年4月21日発売


── 佐野さんの部屋で、曲の形がどんどんできていったと。銀次さん側からも提案はされたんですか?

伊藤銀次 佐野くんから指定されなかったところには多少、盛り込んでます。ただこのときは、あくまで彼のイメージを具現化するのが自分の役割だと決めていたので。佐野くんが首を捻ったら、すぐ引っ込めるつもりだった(笑)。そうやって綿密に打ち合わせを重ねつつ作ったのが、ファースト・アルバムに収録したロックンロール調の4曲。

── A面1曲目の「夜のスウィンガー」、2曲目「ビートでジャンプ」、4曲目の「プリーズ・ドント・テル・ミー・ア・ライ」、そしてB面4曲目「バック・トゥ・ザ・ストリート」ですね。レコーディングに参加したミュージシャンも銀次さんが声をかけたんですか?

伊藤銀次 はい。ベースが岡島BUN(岡嶋善文)くんで、キーボードが板倉雅和くん。このふたりは当時、松原みきさんのバンドで一緒に演奏していた仲間で、気心が知れていた。ドラムスは長い付き合いで、シュガー・ベイブでも一緒だった上原“ユカリ”裕に頼みました。ギターは自分で弾くことにした。これは別に腕に自信があったわけじゃなくてね。意思疎通に苦労するのがとにかく嫌だった。

── どんなにギターがうまくても、ふたりで固めたイメージから逸れていては意味がないと。

伊藤銀次 まさにそう。結局のところ僕は、佐野くんに音楽を仕事にすることを嫌いになってほしくなかったんだと思います。最初の話題に戻っちゃうんだけど、僕の中にも佐野元春はいるんだよね。音楽に対してどこまでもピュアで、信じたサウンドをエモーショナルに追求するロック少年っぽい部分が、自分の中にもある。初めて会ったとき、僕は彼の中にそれを見たんじゃないかと。

── 銀次さんが抱いたその感覚は、すごくわかる気がします。

伊藤銀次 僕がバンド活動を始めた70年代は、まだ日本にはそういうマーケット自体が存在しませんでした。だから苦労も重ねたし、紆余曲折も重ねたわけだけど……。80年代が近づくにつれ、その空気が一気に替わる予感があった。僕が関わった松原みきさんもそう。要は若いリスナーたちが、都会的で洗練されたポップスを本気で求めだしていたんです。だからこそ佐野くんには、妥協せずに真っ直ぐ進んでほしかった。彼みたいに才能とスター性を持った若者が市民権を得られなければ、日本のポップロックに未来はないだろうと。

“ガラスのジェネレーション さよならレボリューション”の歌いだしの部分が僕には“グッバイ70’s ハロー80’s”という宣言に聴こえた(銀次)


── 先輩として、どこか希望を託すところもあったんでしょうか。

伊藤銀次 確実にあったと思います。ただ、それをはっきり意識したのはセカンドアルバム『HEARTBEAT』ですね。ファーストの4曲は、あくまでロックンロール限定のアレンジメントだったので。レコーディングもうまくいったし、「お互いこれからも頑張ろう」みたいな感じで気分よく別れた。あとはいちファンとして、佐野くんの活動を応援しようと思っていました。ところが『BACK TO THE STREET』の発売後に、思わぬ場所で再会したんだよね。それで運命の歯車が大きく回りだした(笑)。

── その「思わぬ場所」というのが……。

伊藤銀次 ’80年4月にテレビ神奈川(TVK)でスタートした音楽番組『ファイティング80’s』。宇崎竜童さんがMCを務め、蒲田の日本工学院で収録されていました。で、始まって間もない頃だったと思うんですが、松原さんがゲスト出演することになって。仲間と現場に行ったら、なんと佐野くんが自分のバンドとリハーサルをしてたんです。驚いて「なにしてるの?」と聞くと、番組レギュラーとして出ているという。

── そのときのメンバー構成は、後のザ・ハートランドとは違っていたのですか?

伊藤銀次 この時点でまだハートランドは 結成されていませんでしたが、たしかキーボードの阿部(吉剛)さんとサックスのダディ柴田さんはいたかな。あとは佐野くんが当時いた「ヤングジャパン」という事務所が集めたメンバーだったはずです。これは僕個人の印象ですけどね。ヤングジャパンというのは本来、フォークのミュージシャンが多い事務所なので。彼のようなアーティストを扱いかねていた部分もあったと思う。というのも、佐野くんの書く曲ってものすごく幅があるじゃないですか。『BACK TO THE STREET』の楽曲を見ても、ロックンロールからAORっぽいものまで非常にバラエティに富んでいる。その両方を自在にこなせるミュージシャンは当時なかなかいなかった。

── そうなるとレコーディングでは実現できたイメージが、ステージでは再現できなくなる。

伊藤銀次 少なくとも僕の目にはそう映りました。しかも彼が欲するパフォーマンスは職業ミュージシャンが譜面を見ながら再現できる類のものじゃない。ヴォーカルとバンドが一体となり、佐野くんの一挙手一投足に合わせて加速していくイメージでしょう。僕が『ファイティング80’s』で見た演奏は正直、そういった阿吽の呼吸からは程遠かった。苦労しているなと思いながらステージを眺めていました。そしたら収録からほどなく、彼のマネジメントから電話をもらって。「銀次さん、ギタリストとして佐野のバンドに入ってくれませんか」と言われたんです。

── 電話を受けて、率直にどう思われました?

伊藤銀次 素直に嬉しかったですよ。その時点で僕はもう、佐野元春の音楽のファンになってましたからね。一緒に音楽を作れるのは楽しいだろうなと思った。僕から出した条件は「ギャラは他のメンバーと一律にしてください」という一点だけ(笑)。綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、お金で揉めてバンド内がガタつくのが嫌だったんです。そこからメンバーとなり、一緒にステージに登るようになった。

── 銀次さんが正式に加入したのが、’80年の前半。翌年2月25日には、アルバム『HEARTBEAT』がリリースされています。ここでも銀次さんは10曲中の6曲でアレンジを手がけられてますね。

伊藤銀次 セカンドについて言うとね。レコーディングが始まる前は、また自分に声がかかるとは思っていなかったんです。ファーストとは別のアレンジャーと組んで、もっと可能性を広げるんじゃないかと。でも佐野くんは、また銀次とやりたいって言ってくれた。そのときはもう同じ釜の飯を食うバンド仲間になってましたから。アーティストとスタッフという関係だったファーストとは違って、ひとつのチームとして制作に取り組めた。おそらく佐野くん自身、そういうアプローチを欲していたんじゃないかな。

── このアルバムでは初めて「THE HEARTLAND」のバンド名がクレジットされました。

伊藤銀次 (当時のライナーノーツを見ながら)でもこの頃はまだ、メンバーが流動的だよね。世の中が佐野元春というアーティストの進化を理解するのにも、ザ・ハートランドというバンドが形をなし、佐野くんの求める音を鳴らせるようになるには、まだまだ長い試行錯誤が必要だった。文字どおり紆余曲折あって、道はまったく平坦じゃなかったんです(笑)。


『HEARTBEAT』

佐野元春
『HEARTBEAT』

1981年2月25日発売


── ちなみに2枚目のアルバム『HEARTBEAT』でとりわけ印象深いナンバーを挙げるとすると?

伊藤銀次 個人的にはやっぱり「ガラスのジェネレーション」かな。佐野くんが最初に歌って聴かせてくれたとき、こいつはすごい曲だと感動しました。特に〈ガラスのジェネレーション さよならレボリューション〉という歌いだしの部分。僕にはこのフレーズが“グッバイ70’s、ハロー80’s”という宣言に聴こえたのね。時代の変わり目に佐野くんという新しい表現者を知ってもらうための、最高のキャッチコピーに思えた。ちょうどセカンドには“山の頂”を示すナンバーが欲しいと思っていたので、ぴったりだなと。

── 山の頂というのは、具体的にはどういうことでしょう?

伊藤銀次 さっきも言ったように、佐野くんってとにかく作風が幅広いですよね。山に喩えると西の裾野に激しいロックンロールがあって、東の裾野に大人っぽいバラードがある感覚。その裾野があまりに広すぎて、当時多くの人が佐野元春というアーティストの実像を掴みかねていました。リスナーだけじゃなく、音楽業界の関係者もそう。でも「ガラスのジェネレーション」って、両方の要素があるじゃないですか。まずメロディーが甘酸っぱくて、どこか切ない。「アンジェリーナ」に比べるとどこか、シンガーソングライター的な親しみやすさがありますよね。それでいてデビュー曲の核にあるビート感もキープされているでしょう。


「ガラスのジェネレーション」

佐野元春
「ガラスのジェネレーション」

1980年10月21日発売


── たしかに。キャッチーな「ガラスのジェネレーション」を先行のシングルとして聴き手に届けることで、アーティストとしての全体像が捉えやすくなると。アレンジで意識されたことはなんですか?

伊藤銀次 イントロからとにかくフレッシュな音色を響かせること、かな。佐野くんは最初、アコースティックギターを弾きながら僕に歌ってくれたのね。パブロックのニック・ロウみたいで、それはそれでかっこよかった。でも僕はこの曲を、佐野元春が作った80年代への招待状だと捉えていたので(笑)。アコギを使うことで、単純に70年代フォークの仲間と誤解されるのが嫌だったのね。そう言ったら、佐野くんが「わかった、ちょっと待って」と言って。ピアノのコードを“ガンガンガンガン”とリズミカルに鳴らす、あのアレンジを考案した。実はあのフレーズ、よく聴くとアコースティックピアノにシンセサイザーの倍音が薄く乗ってるでしょう。これは僕がこだわった箇所で。生音のよさを生かしつつ、どこかで新しい時代のフレイバーを強調したかったのね。佐野君は頑固なアーティストみたいに言われることが多いけど、こちらが理路整然と語りかけると、ちゃんとその意味を理解して、取り入れてくれるのです。だけど、たとえば後半でちょっとフュージョンっぽい音色のギターが入ってくるじゃない?

── はい。サビを追いかけるように奏でられるフレーズですね。

伊藤銀次 マニアックな話になっちゃうけど、あれって要は、当時ウエストコーストで流行ってたサウンドに近いんですよ。ジェイ・グレイドン風って言えば、わかる人にはわかるかもしれない(笑)。はっきり言って、佐野くんの趣味じゃありません。でも僕は、何としてもこの曲をたくさんの人に届けたかったから。「ここにこのフレーズを入れることで、ぐっと耳を引き付けたいんだ」と意図を説明しました。もちろん彼がそれでも気が進まなければ、プランを引っ込めるつもりだった。そうしたら彼はしばらく考えて「うん、わかった」と言ったんです。あのときもすごいなって思ったな。

でもなぜかその日はメンバー全員そのまま演奏を続けたんだよね(銀次)


── そうやって対話しながら『HEARTBEAT』を完成させ、同時にライヴも重ねていったと。

伊藤銀次 そうですね。残念ながら「ガラスのジェネレーション」は、セールス面では振るいませんでした。でもこのセカンドシングルによって確実な変化はあった。ライヴハウスの動員が一気に増えたんですね。これはよく話すエピソードなんだけど、リリースの1週間後くらいだったかな。定期出演していた新宿「ルイード」に、いつものようにふたりで行ったんですね。ライヴハウスの入口が行列ができていて、ふたりとも曜日を間違えたと思ったんですよ。当時の一番人気だったシャネルズ(後のラッツ&スター)の出演日に来ちゃったのかなと。そしたら佐野くんを見つけた女の子たちから、“キャーッ!”と歓声が上がって驚いたのなんの(笑)。前回のルイードのライヴまではお客が 10 人程度の日もザラでしたから、すごい変化だった。



1980年、ルイードの楽屋にて


── チャートインしなかったのに、なぜ若いリスナーは佐野元春を発見したんでしょう?

伊藤銀次 ラジオの効果も大きかったと思います。セカンド・アルバムのひと月後にはNHK-FM『サウンドストリート』で、いわゆる“元春レイディオ・ショー”が始まったから。あの番組で佐野くんはオリジナルに加えて、自分が影響を受けてきたロックンロールやポップスを積極的に流したでしょう。自分の音楽のバックグラウンドとなるロックなどの洋楽をかけることで、リスナーに自分の音楽がどういうものかを密かに伝えることができた。それに伴って地方動員も加速度的に増えました。流動的だったメンバーもやっと固定して「ハートランド」となり、ライヴの内容もどんどんよくなっていった。大変だったけれど、とにかく彼は負けずにがんばってたね。当時の佐野くんはよく自分たちを映画の『がんばれ!ベアーズ』に喩えていました(笑)。

── 弱小少年野球チームが凸凹メンバーで優勝をめざすという、ファンには有名な比喩です。

伊藤銀次 ははははは、そうそう。結成当初は文字どおりベアーズ状態だったザ・ハートランドが、ライヴを重ねるうちめきめき力を付けて。決定的だったのは、やっぱりドラムのしーたか(古田たかし)でしょうね。彼はもともと、原田真二さんのバックで叩いていたんです。でも原田さんがアメリカに留学することになって。’82年の頭くらいだったかな。付き合いのあったベースの小野田(清文)が「いいドラマーがいるよ」ってオーディションに呼んできた。彼はテクニックも抜群だし、なによりマインドがいいんです。当時はプログレっぽい派手なスタイルで、手数も多かったんですね。でもすぐ佐野くんの音楽性を理解して、シンプルでタイトな叩き方を身につけた。たしか彼は後年、専門誌のインタビューでこんな発言をしていたはずです。「僕はザ・ハートランドで、佐野さんからエイトビートを教わった」ってね。

── うーん……しみじみと心に染みる名言ですね。

伊藤銀次 ね、人柄が滲んでるでしょ(笑)。これは僕の持論なんだけど、バンドで何が重要かって、やっぱり歌とドラムの連携なんですよ。いわゆる“縦線”ってやつ。しーたかの持ち味はまさにここにあって。舞台上で佐野くんのエモーションを感じとり、その流れに合わせたリズムを瞬時に叩き出せる。ベースの小野田との連携もばっちりだったしね。この時期の佐野元春ウィズ・ザ・ハートランドのステージは凄まじかったですよ。佐野くんというコンダクターのもと、メンバー全員が有機的にリンクしている感覚があった。



佐野元春、伊藤銀次のオフショット(写真提供:伊藤銀次)


── とりわけ記憶に残っているエピソードはありますか?

伊藤銀次 ツアーの話を始めると、それだけで一冊の本が書けちゃうくらいありますよ(笑)。今パッと思い出したのは……あれも新宿の「ルイード」だったかな。佐野くんはいつも、最前列のテーブルにはお客さんを入れずに空けていたのね。それで、会場の盛り上がりが最高潮に達する終盤。そのテーブルに飛び乗って演奏するという定番のパフォーマンスがあった。でもあるとき、高く振りかざしたギターの先端が照明に当たって電球がショートし、お店が真っ暗闇になってしまった。ブレーカーが落ちてますから、聴こえるのは生楽器のドラムとサックスだけ。

── へええ。とんてもない突発トラブルじゃないですか!

伊藤銀次 普通ならいったん演奏を止めて、仕切り直すシチュエーションです。でもなぜかその日は、メンバー全員そのまま演奏を続けたんだよね。で、しばらくたって突然電源が回復したとき、すべてのパートが寸分たがわずピタッと合っていた。ステージ上のみんなが見えない糸で繋がってる感覚っていうのかな。いろんなバンドに参加してきたけど、ああいう経験はしたことがなかった。それだけじゃない。他にも奇跡のような瞬間がいろいろありました。



1982年、<Welcome to the Heartland Tour>にて


再定義『HAYABUSA JET Ⅰ』というのは皮膚感覚としてすごくわかる。あ、僕の知ってる佐野くんだなっていう(笑)(銀次)


── そうやって全国津々浦々のライヴハウスをサーキットしながら、佐野さんとザ・ハートランドはバンドのポテンシャルを高めていった。その勢いをキープしたままで、’82年5月に発売される決定的なサード・アルバム『SOMEDAY』のレコーディングに入っていったわけですね。

伊藤銀次 1枚目と2枚目ではまだハートランドがなかったので、スタジオ・ミュージシャンたちにお願いしてレコーディングしなければならなかった。もちろんそれはそれでいい演奏だったけれど、時間と予算の関係で、佐野君の描いている世界を100%表現しきることができないのが佐野くんにとってもぼくにとっても大きな問題でした。アルバム『SOMEDAY』の少し前の「DOWN TOWN BOY」と「スターダスト・キッズ」のレコーディング時の頃には彼の思いを具現化できるハートランドのメンバーがそろったので、レコーディングの前に、リハスタで納得いくまでアレンジをメンバーと共に考えることができるようになった。そこでレコーディング・スタジオのぶっつけ本番ではなく、まずリハスタで入念に準備を重ねることで、佐野くんの考えをディテールまで表現することができて、加えてバンド演奏のダイナミズムもすごくいい形で入れ込むことができるようになったことが、『SOMEDAY』とそれまでのアルバムの大きなちがいですね。


「サムデイ」

佐野元春
「サムデイ」

1981年6月21日発売


── ああ、なるほど。

伊藤銀次 サード・アルバムの約1年前、シングル盤の「SOMEDAY」がリリースされたでしょう。あのとき佐野くんは僕に言ったんですね。今度はアレンジから何から自分1人でやってみたい。でも初めてのチャレンジだし、一緒にスタジオに入ってくれると嬉しいって。実際、彼は見事にやりきった。緊張はあったはずですよ。でもテキパキ作業する佐野くんを眺めながら、僕は「もうアレンジャーとして自分がすべきことはないな」と心から思った。なのでその1年後に発表されたサード・アルバム『SOMEDAY』では、僕はディレクターに徹しています。佐野くんはいろいろ相談してくれたけどね。僕の中ではもう、完全に巣立った感覚がありました。


『SOMEDAY』

佐野元春
『SOMEDAY』

1982年5月21日発売


── アルバム『SOMEDAY』リリースから4か月たった’82年9月、大規模な<Rock & Roll Night Tour>がスタート。その後、佐野さんは単身ニューヨークに渡ります。

伊藤銀次 佐野くんから打ち明けられたとき、僕はいい考えだと思いました。アルバム『SOMEDAY』で、ようやく世間一般の認知度が上がったじゃないですか。そのこと自体はとっても喜ばしい。でもそうなると、やっぱり多くのファンは次も同じテイストの作品を求めるでしょう。ただ佐野くんはものすごい集中力で、彼のエネルギーをすべて注ぎ込んで『SOMEDAY』を作っていましたから、それをもう1枚と言われることは、彼にとってはあまりハッピーじゃないなと僕は思ったのね。せっかくヒットしたのにここで休むことはリスキーでもあるけれど、これまでの彼をすべて出し切ったあとなので、とりあえず休んで新たなモードに入ることが必要かと思い僕は彼のニューヨーク行きには両手をあげて賛成でした。約3年の彼との活動を通して僕が感じていた、ファンの前でもときどき見せていた、とんでもなくアヴァンギャルドで、何をしでかすか予想もつかないような、本当のアーティスト佐野元春の世界がニューヨーク生活でどんなふうに出てくるかの期待を込めて。

── 実際、帰国後の’84年5月リリースされた4枚目のアルバム『VISITORS』は日本初の本格的ヒップホップサウンドで、リスナーに衝撃を与えました。

伊藤銀次 あれは痛快だったよね。「ほら見ろ、これが佐野元春だぜ」って感じで(笑)。

── 佐野さんの帰国後、銀次さんはザ・ハートランドを脱退。’84年10月に始まる<VISITORS TOUR>では、ギタリストのポジションは横内タケ(健亨)さんに引き継がれます。

伊藤銀次 佐野くんは「また一緒にやりたい」って引き止めてくれたんだけど、彼がニューヨークに行ってる間に自分のソロワークや他のプロデュース仕事も忙しくなってね。名残惜しかったけれど、抜けることにした。後悔はなかったですよ。むしろお互いやるべきことやって、ちゃんと新しい道に進める爽やかさが大きかった。


『HAYABUSA JET Ⅰ』

佐野元春 & THE COYOTE BAND
『HAYABUSA JET Ⅰ』

2025年3月12日発売


 話を戻すとね、僕は佐野くんにとって’82年の『SOMEDAY』は必然だったと思うんです。ちょうど1年前に大滝(詠一)さんの『A LONG VACATION』が出て、空前のヒットを記録したでしょう。日本のポピュラーミュージックのメインストリームに良質なポップスが躍り出た。そこで一気にブレイクするのは、どうしても『SOMEDAY』的内容のアルバムが必要だったわけです。でも何度も言うように、それは佐野くんの創造性の一部なんだよね。実際の彼はいつだって最先端のサウンドを求めている。最新作『HAYABUSA JET Ⅰ』がまさにそうじゃないですか。「ガラスのジェネレーション」の再定義なんて最高だったし。



佐野元春 & THE COYOTE BAND「つまらない大人にはなりたくない」(ex -ガラスのジェネレーション)
2025 © M’s Factory Music Publishers


── 「つまらない大人にはなりたくない」ですね。どういうところに惹かれましたか?

伊藤銀次 細かいアレンジ云々じゃなく、シンプルに“2025年の音”になっているところ。他の曲もそうだけど、欧米の最先端プロダクトと比べて違和感ない質感のダンスミュージックですよね。僕はそこがすごく嬉しかった。ミュージシャンってやっぱり、その時代の空気を吸ってなんぼだと思うんですよ。ちょっと下世話な言い方だけどね(笑)。少なくとも僕は、ノスタルジーに埋没したくない。生きてるかぎり新しい表現、新しい楽曲を創っていきたいと思っているので。その意味で『HAYABUSA JET Ⅰ』の再定義というのは、皮膚感覚としてすごくわかる。あ、僕の知ってる佐野くんだなっていう(笑)。



1982年、アルバム『SOMEDAY』の頃


── 最初に出会った45年前から、銀次さんの中ではその感覚はずっと続いている?

伊藤銀次 だと思います。いつだったかな、佐野くん絡みのパンフレットになにか寄稿してほしいって頼まれまして。「佐野元春は僕の夢です」って書いたことがあるんですね。こんなミュージシャンがいたら世の中がもっと楽しくなるだろうな。自分もそうありたいなと心から思える人。昔も今も、そこは100%同じですね。

(了)

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    ▲『MOTOHARU SANO THE COMPLETE ALBUM COLLECTION 1980-2004』ブックレットより







伊藤銀次(いとう・ぎんじ)

●1950年12月24日、大阪府生まれ。1972年にバンド“ごまのはえ”でデビュー。その後ココナツバンクを経て、シュガー・ベイブの’75年の名盤 『SONGS』(「DOWN TOWN」は山下達郎との共作)や,大瀧詠一&山下達郎との『NIAGARA TRIANGLE VOL.1』(’76年)など,歴史的なセッションに参加。’77年『DEADLY DRIVE』でソロ・デビュー。以後、『BABY BLUE』を含む10数枚のオリジナル・アルバムを発表しつつ、佐野元春、沢田研二、アン・ルイス、ウルフルズなど数々のアーティストにプロデュースやアレンジで関わる。『笑っていいとも!』のテーマ曲「ウキウキWATCHING」の作曲、『イカ天』審査員など、多方面で活躍。

Official Website https://ginji-ito.com/
Official X (Twitter) https://x.com/Ginji_Ito_Offic

佐野元春コラボレート

STUDIO

1980『BACK TO THE STREET』(Guitar、etc.)
1981『HEARTBEAT』(Guitar、etc.)
1982『SOMEDAY』(Co-Producer、Guitar、etc.)…and so on


LIVE

ルイード時代(1980年7月~1981年12月)
Welcome to the Heartland Tour(1982年1月~7月)
Rock & Roll Night Tour(1982年9月~1983年3月)…and so on




▲ウェブマガジンotonano別冊『Motoharu Sano 45』記事内のEPICソニー期の作品表記は2021年6月16日発売された『MOTOHARU SANO THE COMPLETE ALBUM COLLECTION 1980-2004』ブックレットに基づいています。




エモノート佐野元春