2025年4月号|特集 シュガー・ベイブ
【Part2】シュガー・ベイブ結成前夜|シュガー・ベイブSTORY
解説
2025.4.8
文/小川真一

(【Part1】からの続き)
1973年の春、大きな夢と希望を携えてシュガー・ベイブ出発
シュガー・ベイブの結成前夜といえば、やはり山下達郎が友人たちと自主制作したアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』(’72年)から話をスタートするのが妥当だろう。
一般的には、19才だった若き日の山下達郎が仲間たちと大好きなザ・ビーチ・ボーイズをカヴァーして作ったアルバム。このような単純な説明だけで終わってしまうこともあるが、それで終わらないところがこのアルバムの凄さである。山下達郎の音楽への想いが随所に詰め込まれていて、やはり原点を呼ぶのが似つかわしい。すべてがここから始まっていったと言っていいだろう。
まず、簡単に自主制作/インディーズと言うが、’72年において自分たちだけでレコードを作ることがどれだけ大変な作業だったか、今では想像がつかないと思う。60年代にも、インディーズ歌謡曲、自主制作盤のグループ・サウンズといった存在があったのだが、芸能プロダクションのようなところで制作されたものがほとんどだった。他にも、学校の卒業の際に作られる記念品のようなレコードや、社歌などを録音したものもあるが、作品としての完成後は期待できるものではない。
どこで音を録るのか。その録音機材はどうするのか。前回書いたように、70年代の前半はレンタルのリハーサル・スタジオですらまだあまりなかった時代。マイクロフォンを例にとっても、自分たちで調達してこなければならない。さらには、ミキシングやダビングなどの作業をどのように進めるか、レコードのプレスはどこに依頼するのか、ジャケットの制作は、完成してからの販売ルートはどうする。ともかく問題が山積みだった。
配給を含めて、インディーズというシステムが確立したのは、やっと80年代の半ばごろ。70年代後半のパンク/ニュー・ウェイヴの動きに牽引され、次第に形が定まっていった。それまでは、自主制作という響きが似合う手作り感にあふれたものであったのだ。
山下達郎たちのレコード制作の強い味方になったのが、YAMAHAから発売されていたYES-600だ。“YES”とはYamaha Ensemble Systemの略で、6チャンネルの入力を持つミキサー。それぞれのチャンネルにTrebleとBassのトーン・コントロールがついていて、入力がLine/Guitar/Micとインピーダンス切り替えが出来る。それだけの簡単なミキサーなのだが、録音には重宝したはずだ。
ともあれ、レコードを1枚作り上げるのには膨大な熱量が必要となる。レコーディングのテクニックについても、今のように情報があるわけではなく、未知な部分がほとんどだったと思う。実際に『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』の音を聞いていただけば判るが、自分たちがどんな音を作り出したいかが明確になっていて、その一点に向かって突き進んでいる。具体的にいえば、ラウドなドラム・サウンドは用いず、場合によってはスネアとタムだけで音を作っていく。また、最小限のダビングでコーラスを厚くするなど、工夫がこらしてある。つまりは、最終到着地点までの地図が、録音の前から完璧に出来上がっていたのだ。これがこのアルバムの最大の利点であり、凡百の自主制作盤とはまったく異なっている部分だ。このような緻密な作業をたった一ヶ月で成し遂げてしまったのは、やはり若さと情熱だったのだと思う。


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