2025年4月号|特集 シュガー・ベイブ

【Part2】大貫妙子が語るシュガー・ベイブ

会員限定

インタビュー

2025.4.9

インタビュー・文/柴崎祐二


【Part1】からの続き)


ステージ上で緊張しているのは今でも変わりませんよ(笑)(大貫)


── 山下さんの友人達やディスクチャートに来ていた仲間が集まって、いよいよシュガー・ベイブがスタートするわけですね。

大貫妙子 はい。

── 練習の拠点はどこだったんでしょうか?

大貫妙子 山下くんの友人の並木さんという方(筆者注:並木進。山下と共に『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を制作した人物)がすごい豪邸に住んでいて。びっくりするような大きさの石の灯籠があったのを覚えてます(笑)。その家の中の彼の部屋……っていうより、あれはもう敷地内にある別の一軒家みたいなスペースだったと思うんですけど、そこでリハーサルをしてました。


山下達郎
『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』

1972年発売


── それまでギターを弾いていた大貫さんは、シュガー・ベイブの始動に際して鍵盤にスイッチしていますよね。

大貫妙子 山下くんと村松さんがギターを弾くので、流石に三人もギターはいらないということだったのかなと思います。山下くんに、あなたピアノ習ってたよね、って言われて、一応弾けるは弾けるので、鍵盤を担当することになって、ホーナーの電子ピアノを買いました。フェンダーローズだと、力が弱いのでいい音が出ないんですよ。その点、ホーナーだと結構いい音がするんですよ。ライヴでも使っていたんだけど、当時のライヴハウスはスペースが小さかったので、どうしても端っこに置くことになるんですよね。そうすると、半分は幕の後ろに入っちゃう(笑)。

── 当時の写真を見ると、あれ、大貫さんはどこにいるのかな、と思うものが多いです(笑)。

大貫妙子 そうでしょう。今思えばひどい環境で演奏してたものですよ(笑)。

── 「こういうサウンドを目指そう」というような、何かモデルケースのようなものはあったんでしょうか?

大貫妙子 私としては、やっぱりフィフス・アヴェニュー・バンドみたいなものをやりたかっですけど、みんな演奏が上手じゃないからあんなにおしゃれにはならなくて(笑)。当時のシュガー・ベイブなんて、素人の集まりですからね。

── 各人が持ち寄る曲のアレンジはどうやって進めていったんですか?




大貫妙子 (おおぬき・たえこ)
1953年東京生まれ。’73年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成。’75年にアルバム『SONGS』をリリース、’76年に解散。同年『Grey Skies』でソロ・デビュー。’87年サントリーホールでのコンサート以降、バンド編成とアコースティックのライヴを並行して継続、現在までに27枚のオリジナル・アルバムをリリースしている。

著作では、エッセイ集『私の暮らしかた』(新潮社、’13年)ほか多数出版。

CM・映画・TV・ゲーム音楽関連作品も多く、映画『Shall we ダンス?』(’96年/監督:周防正行)のメイン・テーマ、『東京日和』の音楽プロデュース(’98年/監督:竹中直人/第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞受賞)ほか数多くのサウンドトラックを手がける。また、「メトロポリタン博物館」「ピーター・ラビットとわたし」など、子どもにも親しみやすい楽曲でも知られている。

近年のシティポップ・ブームで2ndアルバム『SUNSHOWER』が話題となり、2010年代には多くのアルバムがアナログ盤で再リリースされた。

https://onukitaeko.jp/