2025年4月号|特集 シュガー・ベイブ
【Part2】伊藤銀次が語るシュガー・ベイブ
インタビュー
2025.4.7
インタビュー・文/荒野政寿 写真/島田香

(【Part1】からの続き)
山下君のメロディが、あの言葉を呼んだんですね(銀次)
── 1973年8月、シュガー・ベイブの面々が大滝詠一さんと初対面した日のことを教えて頂けますか。
伊藤銀次 マネージャーの長門芳郎さんが、山下達郎君と大貫妙子さん、村松邦男君、彼らの音楽仲間だった小宮康裕さんを連れてきました。まず大滝さんが、9月21日のはっぴいえんど解散コンサートにコーラス担当として出て欲しいという説明をしたんですけど。その時大滝さんと初対面の山下君が、開口一番、僕らをただのコーラスグループだと思われたら困る、僕らはフィフス・アヴェニュー・バンドみたいに自分たちで演奏してコーラスもやるバンドで、決してコーラス専門のグループではないんだ、といきなり言ったんですよ(笑)。これは凄いやつが来たなと思ってね。一触即発になったらやばいな、大丈夫かなとハラハラしながら見てたんだけど。大滝さんは、まあそう言わずに考えてみてよと話して、その日はお開きになったんですね。
みんなが帰った後で、大滝さんがニコニコしながら「いいね~、生意気で」と、うれしそうに言っていたのが忘れられないですよ。「生意気」っていうのは……山下君は自分に拍車をかけてたんですよね。生意気なことを言うと、周りから叩かれたりする。でも、そこでへりくだってものを言うような人は、やっぱりダメなんですよ。自分のスタンスを貫いて、年上の人に対しても僕はこうなんだとはっきり言える強さが彼にはあった。あの時から、すごいミュージシャンだなと思ってました。
── その頃、ごまのはえ~ココナツ・バンクは、はっぴいえんど同じ事務所、風都市に所属していたわけですが。バンドはひたすら特訓するばかりで、ライヴをやっていないからギャラなんかないわけですよね。生活費はどうしていたんですか?
伊藤銀次 それが、最初のうちはお給料がちゃんと出ていて、僕らが住んでいた福生のハウスの家賃も払えてたんですよ。それはきっと、同じ風都市にいた、あがた森魚君の「赤色エレジー」が大ヒットしたおかげだと思う(笑)。しばらくそういう状態が続いてたんですが、雲行きが怪しくなって給料が滞るようになったのは、風都市がショーボート・レーベルを立ち上げて経営がひっ迫してからでした。
── はっぴいえんど解散コンサートは、メンバーがこれからどんな新しいことをするのかというお披露目、ショーボート・レーベルの発足記念も兼ねた、画期的なコンサートでした。
伊藤銀次 ショーボートがうまくいかなかったのは、誰が悪いという話ではなくてね。あれはアンダーグラウンドにいた人たちが、メジャーに打って出ようという試みで。アメリカでもアサイラム・レコードが始まったり、新しいレーベルがどんどん出てきた時代でした。前例もない中でやっていたし、残念ながらああいう音楽の受け皿は、まだ日本になかったんですよね。今でこそ傑作と言われる大滝さんのファースト・アルバムだって、当時は一部の音楽ファンに評価されただけで、大ヒットしたわけではありませんでしたから。

大瀧詠一
『乗合馬車(Omnibus)50th Anniversary Edition』
2022年発売
── そして迎えた9月21日、はっぴいえんど解散コンサートの当日については、何が印象に残っていますか?

伊藤銀次 (いとう・ぎんじ)
●1950年12月24日、大阪府生まれ。1972年にバンド“ごまのはえ”でデビュー。その後ココナツバンクを経て、シュガー・ベイブの’75年の名盤 『SONGS』(「DOWN TOWN」は山下達郎との共作)や,大瀧詠一&山下達郎との『NIAGARA TRIANGLE VOL.1』(’76年)など,歴史的なセッションに参加。’77年『DEADLY DRIVE』でソロ・デビュー。以後、『BABY BLUE』を含む10数枚のオリジナル・アルバムを発表しつつ、佐野元春、沢田研二、アン・ルイス、ウルフルズなど数々のアーティストにプロデュースやアレンジで関わる。『笑っていいとも!』のテーマ曲「ウキウキWATCHING」の作曲、『イカ天』審査員など、多方面で活躍。
Official Website https://ginji-ito.com/
Official X(Twitter) https://x.com/Ginji_Ito_Offic


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