2025年4月号|特集 シュガー・ベイブ

【Part1】1975年の音楽シーン|シュガー・ベイブSTORY

解説

2025.4.1

文/小川真一


日本語によるロックが日常的となり、表現の幅が大きく広がっていった時期


 シュガー・ベイブの歴史的な名盤『SONGS』が発売されてから50年の月日が経つ。リアルタイムで発売を知っている方も、後からこの名作の存在を知った方も、50年という時代の積み重ねに感慨を持つかと思う。それはまさに、日本のポップ・ミュージックが生まれ、育っていった歴史でもあるのだ。

 シュガー・ベイブのヒストリーを辿るにあたって、まずは『SONGS』が発表された1975年について、当時の様々な状況を知っておく必要があるかと思う。YouTubeもない、サブスクもない、スマートフォンもインターネットもない。いやそれどころかCD(コンパクトディスク)もまだ存在していない。音楽をとりまく環境がまるで違っていたのだ。まずはそんな70年代にタイムスリップしてみようかと思う。

 現在と一番違うのは、音楽の発表の場であるライヴハウスがなかったことだ。ライヴハウスがなければ、どこで音楽を演奏していたかというと、自分たちで小さなホールを借りたり、時には野外の公園などでライヴを行っていた。60年代後半のグループサウンズ時代の名残で、ジャズ喫茶(といっても演奏するのはグループサウンズ)が残っていたのだが、今のライヴハウスとは形態が異なっている。

 70年代の初頭に出来始めたロック喫茶の片隅でライヴを行ったのが、その後のライヴハウスに繋がっていくかと思う。とはいえライヴ専門の場所ではないので、ステージがあるわけでもなく、アンプやPAは持ち込みというスタイルがほとんどだった。最初はライヴハウスという呼び名もなく、情報誌などにもライヴ・スポットと記されていたと思う。

 ライヴハウスの先駆となったのが、’69年に渋谷の百軒店にオープンした「B.Y.G」だ。1Fが食事の出来るフロアで、2Fがレコード喫茶、地下が演奏スペースという構成になっていた。この店も最初はジャズが中心だったのだが、70年代に入ってからはロックを演奏するようになる。当時の出演者を書いておくと、はっぴいえんど、遠藤賢司、あがた森魚、はちみつぱい、乱魔堂、吉田美奈子、小坂忠、DEW、大滝詠一、裸のラリーズ、頭脳警察などが出ている。こんなラインナップが連日のように続いていたのだから、まさしく日本のロックの聖地だと言える。

 吉祥寺にあった「ぐゎらん堂」は別名“武蔵野火薬庫”とも呼ばれていた。中央線沿線に住む、高田渡、友部正人、シバ、中川五郎、南正人、中川イサトなどがよく歌っていた。いわゆる吉祥寺派フォークの巣窟であったのだが、この店はステージも照明もなく、特別なチャージもなかったように記憶している。

 そのような意味でも、’69年にオープンした「渋谷ジァン・ジァン」は貴重な存在だった。キャパは200人弱と手頃な広さであり、渋谷の公園通りという地の利にも恵まれていた。ここには、RCサクセション、吉田拓郎、五輪真弓、浅川マキ、加藤和彦などが出演している。シュガー・ベイブも’74年に「渋谷ジァン・ジァン」の昼の部に出演したが、最初はまるでお客さんが集まらなかったという。

 その後のライヴハウスの歴史を簡単に書いておくと、’73年に「荻窪ロフト」がオープン。それに続くように「渋谷屋根裏」「新宿ルイード」、高円寺「JIROKICHI」などが出現し、一挙にライヴハウスという文化が花開いていく。

 シュガー・ベイブが’72年頃から、四谷のロック喫茶「ディスク・チャート」の地下でセッションを繰り返していたのには、こんな事情もあったのだ。今ならば、手っ取り早くライヴハウス・デビューとなっただろう。ついでに書いておくと、当時はリハーサル(練習)用の貸しスタジオもほとんど無く、学校の部室やバレエ教室の片隅、友人宅などで苦情を浴びながら練習するしかなかったのだ。

 山下達郎の師匠であり、シュガー・ベイブの育ての親となった大滝詠一について、時系列に沿って書いておこう。大滝が山下達郎を知ることとなるきっかけは、山下が’72年に自主制作したアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を聞いたことに始まる。このアルバムを大滝に教えたのが伊藤銀次と駒沢裕城で、二人が『ADD SOME…』を最初に耳にしたのは高円寺の「ムーヴィン」であった。「ムーヴィン」は、はちみつぱいのベーシストとなる和田博巳の経営するロック喫茶だ。



山下達郎
『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』

1972年発売


 この話はもう伝説となっている。和田が『ADD SOME…』を買ったのは渋谷のヤマハ説、はちみつぱいのギタリストの本多信介が『ADD SOME…』の録音の際にギター・アンプを貸し、その謝礼にアルバムを貰いそれを和田に貸した説、「ムーヴィン」で『ADD SOME…』をかけたのは誰だったのか説など、色々な情報が入り乱れていた。最近になり和田が「楽しい音の鳴るほうへ はちみつぱい・和田博巳の青春放浪記1967-1975」を出版したのだが、この本の中で真相が明かされている。気になった方は、ぜひ本をお読みください。

 達郎と親しくなった大滝詠一は、山下達郎、大貫妙子、村松邦男をコーラス隊として迎え入れる。こうして大滝関連のレコーディングに参加するなど、濃い関係がはじまっていく。大滝詠一はインタビューの中で、達郎たちと出会った’73年のことを“わが生涯で、輝ける最良の年”、さらに“素敵な連中とあの時代に出逢えて幸せだった”と語っている。

 大滝詠一歴を書いておくと、’72年の年末にはっぴいえんどが正式に解散。’73年9月1日にはっぴいえんどの最後のライヴ<CITY-Last Time Around>が開催される。’74年の9月に自身のプライヴェート・レーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立。そして’75年4月25日に、ナイアガラ・レーベルの所属アーティスト第1号のシュガー・ベイブ『SONGS』の発売となる。



シュガー・ベイブ
『SONGS』

1975年4月25日発売


 さて、’75年の日本のロックがどのようは状態であったかを説明しておこう。

 70年代の初頭から燃え広がっていった関西ブルース勢が、軒並みデビューしていったのが、この’75年だった。まずはウエスト・ロード・ブルース・バンドがアルバムを出し、それに続いて上田正樹とサウス・トゥ・サウス、憂歌団などが世に出ていった。同期期に、名古屋からセンチメンタル・シティ・ロマンスが登場した。石川県小松市を拠点とするめんたんぴんが人気を博し、沖縄出身の紫やコンディション・グリーンが本土上陸を果たした。これはロックは東京だけのものではない、地方にも素晴らしいバンドがいるという宣言でもあったのだ。このロックの多面性は、九州・博多を中心としためんたいロックにも連なっていく。

 東京のロックも負けてはいない。カルメン・マキ&OZが同名のアルバムでデビューしたのは’75年だった。名曲「私は風」を含むファースト・アルバムは、日本語のロックのアルバムとしては異例の10万枚を超えるセールスを記録した。また久保田麻琴と夕焼け楽団は海外録音の『ハワイ・チャンプルー』をリリースし、独自の音楽性をさらに広げていく。

 元はっぴいえんどの細野晴臣は、バッキング・バンドのキャラメル・ママを経てティン・パン・アレーを結成。細野、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆からなるこのグループは、’75年にファースト・アルバム『キャラメル・ママ』を発表。このティン・パン・アレーが全面参加したのが、小坂忠の『ほうろう』であった。

 小坂忠は、モンキーズ・ファン・クラブの日本支部が公募したザ・フローラルの一員から出発し、その後、細野晴臣と松本隆を加えてエイプリル・フールと改名して活動を続ける。解散後は、日本初のロック・ミュージカル「ヘアー」に出演し、’72年には小坂忠とフォージョー・ハーフを結成。そしてそれが、’75年のソロ・アルバム『ほうろう』に繋がっていく。『ほうろう』の素晴らしさは、独自の解釈でソウル・フィールを身につけたところにある。これもティン・パン・アレーの協力なしには成しえなかっただろう。



小坂忠
『ほうろう』

1975年1月25日発売


 はっぴいえんど関連で言えば、ギタリストの鈴木茂がソロ作『バンド・ワゴン』を発表している。このアルバムは、リトル・フィートのビル・ペインらが参加して海外録音盤で、ここでもニュー・ソウル的な感覚が重要な鍵となっている。センチメンタル・シティ・ロマンスがデビューしたのも、この’75年であった。先程も書いたようにセンチは名古屋出身。西海岸的な快活なアメリカン・ロックを得意としていた。そのような意味でもシュガー・ベイブと気が合い、よく一緒にコンサートに出演していた。ともにコーラスには人一倍のこだわりがあり、良きライヴァルの関係であったといえるだろう。



鈴木茂
『BAND WAGON』

1975年3月25日発売


 ’75年の音楽を総括すると、60年代末期の黎明期を経て、日本語によるロックが日常的となり、表現の幅が大きく広がっていった時期にあたる。頑なにロックにしがみつくわけでもなく、借り物のロックに依存するのでもなく、自分たちの語法をしっかりと確立していったのだ。

 またこの時期から、ポップであることの後ろめたさからも解放されている。これは贅沢を獲得したと言ってもいいのだが、スタジオでじっくりと時間をかけて自分たちの音楽を生み出していく、これが許される時代となっていったのだ。

 といったように、日本のロックの蜜月に登場したのがシュガー・ベイブだった。ヒット曲を連発しなくとも、CMの制作や楽曲の提供で経済面を補填していく。考えてみれば、このシステムを作り出したのは大滝詠一であった。好機到来。時代の後押しとともに、シュガー・ベイブは世に出ていったと言える。

【Part2】に続く)