2025年4月号|特集 シュガー・ベイブ
【Part1】伊藤銀次が語るシュガー・ベイブ
インタビュー
2025.4.1
インタビュー・文/荒野政寿 写真/島田香

シュガー・ベイブが大滝詠一のナイアガラ・レコードから1975年にデビューを果たすまでの経緯は、運命的としか言い様がない。彼らを福生と結びつけたのは、山下達郎らがアマチュア時代に100枚だけ自主制作したLPだった。1973年にこのレコードを発見、縁を取り持つことになった張本人が、当時ごまのはえ~ココナツ・バンクで活動していた大阪出身のギタリスト、伊藤銀次。大滝詠一のプロデュースでアルバムを制作すべく上京、福生でリハーサルに明け暮れていたココナツ・バンクは、ナイアガラの第一弾アーティストになる可能性があったが、残念ながら志半ばで空中分解してしまう。その後シュガー・ベイブのソングライティングに協力、一時はメンバーとしても活動した“当事者”である伊藤銀次に、当時の状況を改めて振り返ってもらった。
今どきビーチ・ボーイズのカヴァーをやってる連中がいます、と大滝さんに話したら、「面白いね。連れてきなさい」って言うんですよ(笑)(銀次)
── まず“発端”のひとつである、ごまのはえが大滝詠一さんにプロデュースを依頼することになった経緯から教えてください。
伊藤銀次 ごまのはえは1972年にベルウッドから「留子ちゃんたら」というシングルを1枚出したんですけど。サウンド的には自分たちが好きだった洋楽を目指していましたから、理想の音に近付けるためにはアレンジメントやレコーディングをどうやったらいいのか、正直よくわからなくて。それで、最初のアルバムを作るに当たって、プロデューサーを立てたいということになっていきました。
当時の日本で、プロデューサーと言って頭に浮かぶのは……はっぴいえんどのアルバムの音が、あまりにも良すぎたんですよ。それまでは日本のどのレコードを聴いても、何だか音が薄い。ドラムが遠いし、ベースも硬い音でボリューム感がないんですね。それで、「日本じゃ無理なのかな」と思ってた。ところが、はっぴいえんどのファーストアルバムを聴いたら、洋楽並みのサウンド感があったのでね。多分彼らはレコーディングの技術やノウハウを知ってるんじゃないかなと思ったんです。
で、多分バンドの中心人物は細野晴臣さんと大滝詠一さんだろう、と。プロデュースをお願いするならどちらがいいかな? とメンバー同士で話し合っていた頃、ちょうど大滝さんがファーストソロアルバムを制作中で。僕らのマネージャーだった福岡風太が、あのアルバムのラッカー盤を入手してきて聴かせてくれたんです。それに入っていたエルヴィス・プレスリーへのオマージュソング、「いかすぜ! この恋」が面白くてね。それまではっぴいえんどにああいうエンターテインメント性を感じたことがなかったから、びっくりして。多分この人だったら、大阪弁のユーモアも込みで、一風変わった歌詞のロックをやっていたごまのはえを、きっと理解してくれるんじゃないかと思って。ほとんどダメ元でプロデュースを依頼したら、興味を示してくれて、ベルウッドの三浦光紀さんと高槻市民会館までわざわざライヴを観に来てくださったんです。
ライヴが終わってから大滝さんが、僕が住んでいたアパートまで来てくださって、洋楽のレコードをかけながら明け方まで話しました。「留子ちゃんたら」も聴いて頂いたんですけど、あんまりいいことを言ってもらえなくて、内心“これはダメかな?”と思ったんですが。「返事は帰ってからするから」ということで、東京に戻られて。しばらく経ってから、OKがもらえました。ただし、「南海ホークスみたいに大阪エリアだけで頑張るつもりのバンドだったら、僕はやらない」と。東京へ出てくることが条件だったので、メンバーを説得してバンドごと東京へ移ることになりました。それが1973年の春です。
これは50年以上経ってから、『ヤング・ギター』の編集長だった山本隆士さんのトークライヴで聞いて、初めて知った話なんですが……山本さんが1972年にロサンゼルスではっぴいえんどのレコーディングに立ち会った時に、一番エンジニアに食いついてあれこれ質問していたのは大滝さんなんですって。もうはっぴいえんど解散後の次の段階として、プロデューサーとしてやってみたいという気持ちが膨らんでいたようで。そんな時期に日本に戻ってきてから僕らと出会って、いわば実験第一号、飛んで火に入るごまのはえだったわけです(笑)。

伊藤銀次
『POP FILE 1972-2017』
2017年11月21日発売
▲ごまのはえ「留子ちゃんたら」を含む全69曲入り4枚組BOX
── 東京に出てくる時は華々しい生活をイメージしたかもしれませんが、実際に暮らすことになったのは豊かな自然に囲まれた福生で、音楽以外何もない状況に身を置いた感じですよね。大滝さんの指導のもと、リハーサルが始まったわけですが。その頃のバンドはどんな毎日を過ごしていたんでしょう?
伊藤銀次 僕たちが福生に着いた時は、まだスタジオはなかったんですよ。ハウスの窓に全部毛布を張って、広間にドラムセットを組んで。そこに大滝さんがやって来ると、僕らが演奏する曲を聴きながら、アレンジについて意見する…というような形で最初は始まったんです。練習を続けているうちに、実は9.21のはっぴいえんど解散コンサート(1973年9月21日、文京公会堂で開催された「CITY-Last Time Around」)が予定されていることを知らされて。しかも、ただ解散するんじゃなくて、それぞれのメンバーがその後どういう新しいことをするのかもお披露目する、画期的なライヴでもありました。そこに「君たちも出るんだよ」と大滝さんから言われて、大プレッシャーでしたね。
当時は無我夢中だったのでわからなかったけど、大滝さんは本気だったんですよ。その分、指導も厳しかった。本当に「キャラメル・ママに対抗するぐらいの気持ちでやれ」って言われましたから。ただ、僕たちはそこまで気持ちの用意が整ってなかったというか…ちょっと甘いところがあった。後で振り返ってみると、あの時大滝さんがハードルを下げずに、みっちり鍛えてくれたおかげで、その後東京で音楽活動を続けていく準備ができたんだと思います。
そうやって猛練習を続けているうちに、元々友達バンドだったごまのはえの中にも、だんだんとついてこれない人が出てきて。おまけに大滝さんは、大胆にメスを入れてくるわけです。それまでキーボードを弾いていた藤本雄志君がベースにコンバートしたり、「曲を作ってるんだから君が歌え」ということで、僕がリードボーカル兼任になったり。はちみつぱいと掛け持ちで、ペダル・スティールの駒沢裕樹君も加わったバンドは、ごまのはえからココナツ・バンクへとバンド名が変わりました。

── そしてココナツ・バンクの練習の合い間に、駒沢さんと高円寺のロック喫茶、ムーヴィンへ出かけたんですよね。
伊藤銀次 ええ。バンドの練習は文字通りの猛特訓で、休みなしで続いていました。そんな毎日の中、1日だけ休みがあったんですよ。先ほどおっしゃった通り、東京に出てきてからというもの、僕らはずっと福生にいたので、都心に全然出てないんです(笑)。お金もなかったしね。だからたまには足を伸ばそうかなと思って。僕は息抜きのつもりで駒沢君と高円寺まで出て、ムーヴィンに行ってくつろいでたんです。ムーヴィンはレコードを聴きながらコーヒーが飲めるお店で、はちみつぱいでベースを担当している和田博已さんが経営していました。
その時、誰かが演奏しているビーチ・ボーイズの「ウェンディ」がかかったんですよ。音はあんまり良くないんだけど、イントロのドラムの音からまるっきり「ウェンディ」で。耳を澄ましているとコーラスが聞こえてきて…リードボーカルが入ってくると、これが凄くいいんです。歌い方のセンスもいいし、このレコードは何なんだろう?と思って、飾ってあるジャケットを見たら、4Bの鉛筆かなんかで書いたようなジャケットでね。で、『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』って書いてある…ビーチ・ボーイズのアルバムのタイトルじゃないですか。裏返して見ると、日本人の名前が書いてあって、シリアルナンバーが振られていました。
「これ、どこで買えますか?」ってムーヴィンの人に聞いたら、これはこの人たちが解散記念に作ったアルバムで、お店では売っていないと言われて。ジャケットに書いてあった並木進さんっていう人の電話番号をメモして、その日は福生に帰りました。後日その番号に電話して、池袋のパーラーで待ち合わせて、アルバムを1枚売ってもらうついでにメンバーの近況を訊くと、今は山下達郎君と鰐川己久男君がシュガー・ベイブという新しいバンドで活動している、と知って。
福生に戻ってから、手に入れた自主制作盤を僕の部屋でかけていたら、いつものようにふらっと大滝さんが現れて。今どきビーチ・ボーイズのカヴァーをやってる連中がいます、おまけにマンフレッド・マンの「ミスター・ジェイムスの花嫁さん」までやってますよ、と話したら、「面白いね。連れてきなさい」って言うんですよ(笑)。その時点で、大滝さんは彼らをコーラスグループだと思ったようで、9.21にコーラス担当として出そうと思いついたみたいなんですけど。“僕が連れてくるの?”と思いながらも、早速並木さんにまた電話したら、今度は沼袋に住んでいる長門芳郎さんを紹介されて…池袋の次は沼袋か、と(笑)。福生から行くと、どちらも結構遠いんですけど。
その長門さんがシュガー・ベイブのマネージメントをやっていると聞いたので、沼袋まで会いに行って事情を説明したら、長門さんは地元の長崎にはっぴいえんどを呼んだことがある人だとわかりました。「じゃあ山下たちに話してみます」ということになって、その後シュガー・ベイブの面々が福生へやって来る、という流れになるんです。
(【Part2】に続く)

伊藤銀次 (いとう・ぎんじ)
●1950年12月24日、大阪府生まれ。1972年にバンド“ごまのはえ”でデビュー。その後ココナツバンクを経て、シュガー・ベイブの’75年の名盤 『SONGS』(「DOWN TOWN」は山下達郎との共作)や,大瀧詠一&山下達郎との『NIAGARA TRIANGLE VOL.1』(’76年)など,歴史的なセッションに参加。’77年『DEADLY DRIVE』でソロ・デビュー。以後、『BABY BLUE』を含む10数枚のオリジナル・アルバムを発表しつつ、佐野元春、沢田研二、アン・ルイス、ウルフルズなど数々のアーティストにプロデュースやアレンジで関わる。『笑っていいとも!』のテーマ曲「ウキウキWATCHING」の作曲、『イカ天』審査員など、多方面で活躍。
Official Website https://ginji-ito.com/
Official X(Twitter) https://x.com/Ginji_Ito_Offic


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【Part2】伊藤銀次が語るシュガー・ベイブ
インタビュー
2025.4.7