2025年4月号|特集 シュガー・ベイブ
【Part1】大貫妙子が語るシュガー・ベイブ
インタビュー
2025.4.1
インタビュー・文/柴崎祐二

シュガー・ベイブで、フロントマンの山下達郎と並んでリード・ヴォーカルを取ることが多かった大貫妙子。今や、日本を代表する女性シンガーソングライターとして、国内外に多くのファンを持つ現在の彼女にとって、本格的なキャリアの幕開けとなったシュガー・ベイブでの活動期とは、どんな日々だったのだろうか。全4回にわたり、たっぷりと話を訊いていこう。
初回である今回は、バンド結成以前1970年代初頭のアマチュア時代から、フォーク・トリオ「三輪車」でのこと、山下らメンバーとの出会いに至るまで、「シュガー・ベイブ前夜」について語ってもらった。
生意気にも「え、歌上手いじゃん、何者なんだろう」って思って(笑)(大貫)
── 今日はお時間をいただきありがとうございます。全4回にわたるシュガー・ベイブをテーマにしたインタビュー記事ということで、当時のことを振り返っていただきながら、じっくりお話を伺っていければと思います。
大貫妙子 よろしくお願いします。最初に言っておきますけど、私、昔から本当に先のことにしか興味がなくて、記憶も曖昧なので、そのつもりで訊いてくださいね(笑)。
── ということは、ご自身の過去の作品を都度聴き返したりもしないんですか?
大貫妙子 全然しません。例えば、ラジオで私の曲をかけてくれるときとかには選曲のために一応耳にしますけど、自分からは全く振り返らないですね。
── じゃあ、シュガー・ベイブ時代なんてなおさら……。
大貫妙子 もう、霧の向こうの出来事っていう感じです(笑)。
── そういうお話を伺ったばかりにも関わらず、更に遡った時代の話から始めたいのですが(笑)、まず、シュガー・ベイブ以前に、どうやって音楽活動を始められたのでしょうか?
大貫妙子 本当に思い出したくもないような過去なんだけど、そういうのに限ってよく覚えていて(笑)、学生の頃、五反田の「緑園」っていう喫茶店でバイトしていたんです。ビルの中の数フロアが全部喫茶店で、コーヒー一杯で粘りながら競馬新聞を読んでいるようなお客さんが沢山いる店でした。そこで、たまに弾き語りをやっていたんですね。キッチンで暇なバイト仲間と喋っているとき、「君は普段なにやってるの?」って訊かれて、「音楽が好きでギターを弾いてます」と答えたら、お店にあるDJブースにマイクが付いていたので、そこで弾き語りしてみれば、と提案されたのがきっかけです。フォークっぽい曲を一人で演奏していました。
── その頃はどんな音楽がお好きでしたか?
大貫妙子 やっぱりジョニ・ミッチェルかな。キャロル・キングも好きだったけど、ジョニ・ミッチェルが一番でしたね。ちょうど『ブルー』が出たころで、擦り切れるほど聴いていました。彼女の存在は私にとって別格で、今に至るまでずっと素晴らしいと思って聴き続けています。

ジョニ・ミッチェル
『ブルー』
1971年発売
── その後、「三輪車」というフォーク系のグループに参加されるんですね。
大貫妙子 はい。
── どんな経緯で参加することになったんでしょう?
大貫妙子 弾き語りをするにしてもレパートリーを増やさなきゃと思って、ある日ヤマハへ楽譜集を買いに行ったんです。その時たまたまギターを抱えていたんですが、それを見て音楽をやっている人だろうと目をつけた二人の男性に、突然声を掛けられたんです。「音楽やっているんですか?」と訊かれて、「アマチュアみたいなものですけど」って答えたら、僕達も二人で音楽をやっているんだけど、ちょうど女性ヴォーカルが欲しいと思っていたので、よかったら一緒にやりませんか?って。こちらの趣味も知らずにいきなり誘うなんて、最初は「えー、大丈夫かな」と思いましたけど……(笑)、まあ、色々話を聴いて参加してみようかな、と。
── 三輪車は正式にデビューする予定もあったらしいですね。
大貫妙子 はい。メンバーの一人がワーナー・パイオニアの大野さんという女性ディレクターの方とたまたま知り合いだったらしくて。その大野さんが、男の子二人、女の子一人っていう編成のグループを探しているっていうことだったので、ちょっと会ってみませんか? という話になったんです。六本木のワーナー・パイオニアのビルにみんなで行ったのを覚えています。三輪車っていう名前がいつ付いたのかは覚えてないんですけど、大野さんが私のことに興味を持ってくださって、デビューに向けて動いていくことになったんです。多分、ピーター・ポール&マリーとか、ああいうフォーク・グループを想定していたのかなと思うんですけど。
── そこからオリジナル曲を持ち寄って練習するようになるんですね。
大貫妙子 そうだったと思います。オリジナル曲も書くの? と大野さんに訊かれて。……けど、男性二人の書く曲がつまらなくて……というか、私の趣味と全然合わなくて(笑)。
── 後に流行する叙情派フォークみたいな……?
大貫妙子 そうですね。あとは、「信州伊那の森〜♪」みたいな、土着的な和製フォークっぽい曲もあって、「うーん、趣味じゃないなあ」と思いながらやってました。あの当時、私達の先輩にあたる赤い鳥が「竹田の子守唄」をヒットさせていたので、レコード会社としてはそういうのを目指していたんだと思いますけど。でもやっぱり、音楽ってただ一緒にやればいいってものじゃなくて、好き嫌いが合うかどうかっていうのは大事じゃないですか(笑)。私は洋楽しか聴いてなかったですしね。
── 三輪車は、ライヴ活動もやっていたんですか?
大貫妙子 はい。大野さんの後押しで新宿のルイードに出たり。大野さんは本当に素晴らしい方で、シュガー・ベイブの後のソロのときにも色々支えてくれたんです。
── 曲作りを進めるにあたって、途中から矢野誠さんがアレンジャーとして参加したと伺いました。
大貫妙子 レコードを出すためにプロデュースをしてくれる人が必要だということで、多分、大野さんの繋がりで矢野さんが呼ばれたんだと思います。それが後の展開を大きく変えることになりました。改めて強く感じるんですが、やっぱり全ては「出会い」なんですよね。
── 矢野さんとはどんなやりとりをしたんですか?
大貫妙子 矢野さんも相当変わった人なので、曲を聴いてもらったら、うーん、ター坊はこのバンドに合ってないね、ってズケズケ遠慮なく言ってくるんですよ(笑)。それで、私も、そう思っていたんですよー!って。自分でも曲を作れるんだし、シンガーソングライターとしてもやっていけると思うから、別に三輪車を続けなくても良いんじゃない? と提案してくれたんです。元々矢野さんはバンドを売り出すために呼ばれたはずだったのに、結果的にバンドを解散させることになってしまったんですね(笑)。三輪車がデビューしていたら一体どうなっていたんだろう……と考えると、結果的良かったと思いますけどね。
── 四谷のロック喫茶「ディスクチャート」を訪れたのは、その解散後のタイミングですか?
大貫妙子 そうだったと思います。たしかそれも矢野さんの紹介だったと思うんですけど、バンドを辞めて何をしようかなと考えていたときに、洋楽ばかりをかけているお店があるから行ってみようと言われたのかな……。記憶は定かじゃないですけど。いい音楽がたくさん聴けるのであればということで、ウェイトレスとして働き出したんです。
── 当時を知る方の話によると、お店にはジョン・セバスチャンの写真がバーンと貼ってあったらしいですね。ハードロック系が全盛の時代にあって、なかなか特異な嗜好のお店ですよね。
大貫妙子 そう。今考えると、「ロック喫茶」っていうイメージともちょっと違っていましたね。長門(筆者注:長門芳郎。その後シュガー・ベイブや細野晴臣らのマネージャーを務める)さんがキッチンにいて、その長門さんが集めた沢山のポップス系やシンガーソングライター系のレコードがあって。流行り物とは違うセレクトでした。
── ちなみに、当時の大貫さんが特にお気に入りだったレコードはなんですか?
大貫妙子 フィフス・アヴェニュー・バンドのアルバムが大好きでした。今でも好きです。すごくおしゃれ。「ナイス・フォークス」とか、いい曲ばかりですね。本当に、あの時代(1969年)にあんな音を出していたっていうのがいまだに信じられないくらいです。

フィフス・アヴェニュー・バンド
『フィフス・アヴェニュー・バンド』
1969年発売
── 今でこそ、1960年代から1970年代にかけてのポップス系のレコードやアーティストというのは一般的にも高く評価されていますけど、あの当時は、やっぱり少数の人たちに支持されていたに過ぎなかったということなんでしょうか。
大貫妙子 うん、そういう感じだったと思います。
── 矢野さんとは三輪車解散後もデモ・テープ作りを続けていたらしいですね。
大貫妙子 そうそう。お店が終わった後、「ター坊をソロでデビューさせよう」ということで、簡単な曲を矢野さんと一緒にデモ録音していたんです。とはいえ、具体的にデビューするあてがあったわけじゃないんですけど。
── そして、ちょうどその頃に山下達郎さんと出会ったわけですね。
大貫妙子 はい。長門さんが山下くんが好きそうなレコードを沢山持っていたから、はじめはその噂を聞きつけて来たんじゃないかなと思うんですけど。それで、お店が終わった後、その辺にあったギターを手にとって山下くんがなにかを弾き語りしはじめたんです。それを聴いて、生意気にも「え、歌上手いじゃん、何者なんだろう」って思って(笑)。それからだんだん話すようになって、バンドをやりたいんだけど女性ヴォーカルがひとりいるといいなと思っていて、一緒にやりませんか、と誘われたんです。

山下達郎
『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』
1972年発売
── 当時のディスクチャートでは、山下さんがアマチュア時代に自主制作したレコード『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を取り扱っていたという話がありますが、大貫さんも耳にしていましたか?
大貫妙子 してました。けど、正直あんまり趣味じゃなかったですね(笑)。私自身は、山下くんが好んでいたビーチボーイズとかもあんまり好きじゃなかったので。オールディーズ系全般も同じ。でも、それはあまり重要なことではなくて、生で聴いてみて、何より歌が上手いなっていうことの方が印象的でしたね。
(【Part2】に続く)

大貫妙子 (おおぬき・たえこ)
1953年東京生まれ。’73年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成。’75年にアルバム『SONGS』をリリース、’76年に解散。同年『Grey Skies』でソロ・デビュー。’87年サントリーホールでのコンサート以降、バンド編成とアコースティックのライヴを並行して継続、現在までに27枚のオリジナル・アルバムをリリースしている。
著作では、エッセイ集『私の暮らしかた』(新潮社、’13年)ほか多数出版。
CM・映画・TV・ゲーム音楽関連作品も多く、映画『Shall we ダンス?』(’96年/監督:周防正行)のメイン・テーマ、『東京日和』の音楽プロデュース(’98年/監督:竹中直人/第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞受賞)ほか数多くのサウンドトラックを手がける。また、「メトロポリタン博物館」「ピーター・ラビットとわたし」など、子どもにも親しみやすい楽曲でも知られている。
近年のシティポップ・ブームで2ndアルバム『SUNSHOWER』が話題となり、2010年代には多くのアルバムがアナログ盤で再リリースされた。
https://onukitaeko.jp/


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【Part2】大貫妙子が語るシュガー・ベイブ
インタビュー
2025.4.9