2025年3月号|特集 奥田民生 29-30
【Part1】奥田民生が語る『29』『30』
インタビュー
2025.3.3
インタビュー・文/大谷隆之 写真/山本佳代子

UNICORNでの活動を経てソロ・アーティストとなった奥田民生。ファースト・アルバム『29』とセカンド・アルバム『30』を発表してから30周年を迎えた。この度、『奥田民生「記念ライダー30号」29-30 BOXスペシャル』という形で、この最初の2枚のアルバムが初アナログ化される。海外ミュージシャンとコラボレートし、今聴いても新鮮な日本のロックの名盤と言われる2枚だが、奥田民生にとってどのような意味を持つ作品なのか。当時のことを回想してもらいながら、その秘密を探っていきたい。
ニューヨーク録音は音楽を続けていく上でものすごく影響があって、あの延長線上に今があると言っても過言じゃない
── 早いもので、民生さんのソロ1作目『29』と2作目『30』がリリースされて今年で30年です。
奥田民生 そうっすね。ついこのあいだ生まれたんだけどな(笑)。気が付けばもう60年もこの世にいるというね。びっくりしちゃいますよ。
── アルバム『29』のリリースは1995年3月8日。『30』のリリースが同12月1日。その間、3月から6月にかけては初の全国ソロツアーがありまして。
奥田民生 うん。
── この「tamio okuda TOUR “29-30”」真っ最中、民生さんは30歳のバースデーを迎えています。当時の音楽誌をいろいろ読み返すと、多くのインタビューで「30歳になることの意味」を聞かれていて。
奥田民生 特に何にもなかったすよ。そんなの答えようがない(笑)。
── ですよね(笑)。ただ当時の読者にとっては、やっぱりユニコーン時代のカラフルで変幻自在な印象が強かったとは思うんですよ。少なくとも『29』前の時点では。
奥田民生 なるほど。
── それもあってか、どの文章にも「あの奥田民生もついに大人になる」的なニュアンスがあって。何と言うか、当時の邦楽シーンの空気が伝わってきて面白かったです。
奥田民生 ははははは。まあ当たり前ですけど、あの頃はまだ30年分しか生きてなかったからね。なので「十代に比べて、二十代はあっという間だったな」とか、そういう気持ちはあったと思うんですよ。時間の感じ方って、年齢でもけっこう変わるじゃない。若いうちは経験値が少ないから、その変化もビビッドに感じられる。ほら、高校生のガキが「小学校の6年間は長かったなあ」って感慨にふけるのと同じで。

── 飴細工みたいに体感時間が伸び縮みすると。
奥田民生 そうそう。でも最近はもう、60年分をぎゅっと凝縮して回顧するわけですから。そういう細かい濃淡も薄れちゃって。ぜんぶ引っくるめて「あっという間」という、極端な感じ方になってくる。実際、細かいことはかなり忘れちゃっていますし。
── 今月8日には、『29』『30』のアナログ盤と当時のライブ映像をパッケージしたスペシャルボックス『記念ライダー30号』が発売されます。実は『29』『30』の2枚って、今回が初のヴァイナル化なんですね。
奥田民生 ああ、たしかに。今言われて気づきましたけど、たしかに『29』のアナログってないんだよな。そっかそっか。
── その次に出たミニアルバム『FAILBOX』(’97年6月)以降、すべてのオリジナルアルバムでCDとLPを両方出してこられたので、ちょっと意外でした。
奥田民生 だんだん思い出してきたぞ(笑)。その頃って、CDと一緒にアナログ盤を出す発想自体がなかったんですよ。っていうのもユニコーン時代の後半から、リリースはすべてCDオンリーになってましたから。LPレコードはもう世の中から消えちゃったものだと、何となく思い込んでたわけ。『29』と『30』では、それが当たり前に続いてたんでしょうね。でもその後、まだプレス作業ができると知りまして。もともとレコード世代の人間ですから。3枚目では「出せるんだったら出しましょうよ」って話になった。
── そういえば『29』と『30』の2枚は、それ以降のアルバムに比べると、収録時間が若干長いじゃないですか。
奥田民生 そうっすね。CDだと曲をたくさん詰め込めるけど、LPだと時間が伸びるほど(盤面に掘る)溝が狭くなって。品質の問題が出てきますから。それで『FAILBOX』からは、アルバム全体がいい感じでアナログ盤に収まるよう意識するようになった。あとは曲の順番だよね。これもアタマからの流れだけじゃなくて。A面とB面をだいたい同じ長さにしたい。なので昔は、それぞれの曲の長さを紙テープみたいなので表して。
── ああ、なるほど。3分の曲なら3cm。4分20秒の曲なら4cm20mmみたいに?
奥田民生 そうそう。それらをA面とB面の2グループに分けて。ホワイトボードの上でいろいろ並べ替えたりしてね。2つの紙テープの長さがほぼ同じになるように調整してた。そうやって作ってたんですよね。
── ちなみに民生さんは、この2枚のアナログ盤はまだ聴いていない?
奥田民生 ないです。今さっき出ることを知りました(笑)。
── 2枚とも余白を生かした骨太なロックなので、LPの音がしっくりきそうです。ご自分でも早く聴いてみたいとか思われます?
奥田民生 うーん……アルバムとして今振り返りたいかって問われると、まあそうでもないけど(笑)。ただまあ、うちのオーディオでも聴けるわけですからね。80歳になったとき、アナログ盤があるのとないのではだいぶ違うかもしれない。

── 老後の楽しみとして聴くなら、やっぱりCDよりLPの方がいい?
奥田民生 まあ、そうですね。アナログの方が絶対音がいいとは、別に思ってないんですよ。プチプチってノイズはするし、裏返すのも面倒くさいし。ただレコードだと、いらん情報がいい感じで消えてくれてるというか。全体がちょうどいい音域に収まってるでしょ。自分で音楽を聴くとき、そこまで高域や重低音はなくてもいいですから。落ち着くっていうのは、個人的にはあるでしょうね。まあ、良し悪しというよりは好みの問題です。子どもの頃からアナログの音で育ってるので、単純にそれが耳に馴染むという。
── たとえば『29』でいうと、収録曲の一部はニューヨークの老舗スタジオで、昔ながらのアナログ機材を使ってレコーディングされているじゃないですか。
奥田民生 そうっすね。あのときが初の海外レコーディングだった。
── そう考えると今回のアナログ化で、民生さんが当時イメージしていた音色により近づける部分もあるのでは?
奥田民生 そこはまたちょっとややこしくてね。まず前提として、アナログな録り方がしたくてニューヨークに行ったわけじゃない。当時のマネージャーだった原田(公一)さんが、そういう話を持ってきてくれて。現地のスタジオに行ってみたら、まだ普通にそういう昔の機材を使っていた。で、実際に録ってもらったら、すごく自分好みのいい音だったというね。言い方としては、そっちの方が正しい。というのは僕らがユニコーンでデビューしたとき、日本のスタジオ業界はかなりデジタル化されていたんですよ。
── ファースト・アルバム『BOOM』が出たのが、’87年10月ですね。
奥田民生 うん。当時のスタジオにはソニーの「PCM-3324」っていう24chの業務用レコーダーが入ってまして。まだ20代の俺らは、とりあえず「お、デジタルじゃん、すげー!」みたいな感じで、よくわけもわからず盛り上がってた。で、ベテランエンジニアさんたちが環境に慣れようと四苦八苦しているという、要は過渡期だったんです。ただ、何も知らないで広島から出てきて。いきなりそういう最新機材でレコーディングするとですね。なぜか音の質感が、昔から好きなビートルズとかツェッペリンみたいにならない。一体これは何でなんですかね、と。今にして思えば、その答えは演奏力なんだけど(笑)。
── はははは。でも知識がないなりに、アナログ/デジタルの音色の違いは感じていたと。
奥田民生 まあね。今はレコーディングの技術が進化して、全然そんなことはないですけど。まだ出始めの頃って、デジタルの音自体もよくなかったから。どことなくペラペラした音で、あんまり好きじゃないなって。自分らの腕は棚に上げて、メンバーとよくそんな話をしてたわけです。で、ちょうどその時期、海外でレニクラ(レニー・クラヴィッツ)みたいな人が派手に出てきて。レトロっぽい質感のロックをわーっと始めたじゃないですか。「あいつ、どうやらアナログで録ってるらしいぞ」と(笑)。自分に都合よく、そういう情報だけ仕入れたりして。

── 言い換えるとユニコーンの時代から、民生さんの中に「もう少しこういう音がいい」という漠然とした思いはあったと。
奥田民生 まあ、そこまで強く意識していたわけじゃないけど。「もう少しツェッペリンとかビートルズっぽい手触りにはならんもんかね」みたいなことは、多少あったとは思う。
── そのイメージに一気に近づいた作品が『29』『30』だったということは、たぶん言えるんじゃないでしょうか。少なくともリスナーの印象としては、本当に洋楽っぽい匂いがする日本語ロックがいきなり登場した感覚だった。私自身、当時すごくびっくりしましたから。
奥田民生 まあ、すべて偶然のなりゆきで、意図してそういう質感を追求したわけじゃないですけど。結果的にそうなった部分は、あるかもしれないすね。実際『29』のニューヨーク録音は、自分が音楽を続けていく上でものすごく影響があった。あの延長線上に今があると言っても過言じゃないですから。ただ、アナログ盤にすると当時の質感が再現できるかっていうと、それはまた別の話だという(笑)。だってCD用にミックスしたマスター音源を、LPにしてるわけでしょ。
── はい。リマスターはされていますけれど。
奥田民生 ね。当時のアナログのマルチテープをどっかから発掘してきて、昔の機材でミックスし直したわけじゃないから。その時点で俺がニューヨークのスタジオで聴いていた音とは別物になっている。だからまあ、気持ちの問題ですよ(笑)。逆に言うとマスタリング作業なしで、CDの音源をそのままアナログにカッティングしても、そこそこ楽しめるとは思うんですよね。すんなり耳に馴染むという意味では。
── いろいろ考えると、やっぱり『29』『30』を初めてアナログ盤で聴けるのは楽しみです。
奥田民生 そうっすね。まあ俺が言うのも変だけど、価値は十分あると思いますよ(笑)。
(【Part2】に続く)

●奥田民生 (おくだ・たみお)
1965年広島生まれ。1987年にユニコーンでメジャーデビューする。1994年にシングル「愛のために」でソロ活動を本格的にスタートさせ、「イージュー★ライダー」「さすらい」などヒットを飛ばす。また井上陽水とコラボ作品を発表したり、PUFFYや木村カエラのプロデュースを手がけたりと幅広く活躍。バンドスタイルの「MTR&Y」、弾き語りスタイルによるライブ「ひとり股旅」や、レコーディングライブ「ひとりカンタビレ」、YouTubeで繰り広げる宅録スタイルのDIYレコーディングプロジェクト「カンタンカンタビレ」など活動形態も多岐にわたる。さらに世界的なミュージシャンであるスティーヴ・ジョーダン率いるThe Verbsへの参加、岸田繁(くるり)と伊藤大地と共に結成したサンフジンズ、斉藤和義・トータス松本ら同世代ミュージシャンと結成したカーリングシトーンズの一員としても活躍している。2015年に50歳を迎え、レーベル・ラーメンカレーミュージックレコード(RCMR)を立ち上げ、2024年にソロ活動30周年を迎えた。2025年3月には『記念ライダー30号』29-30 BOXスペシャルとLIVE Blu-ray 「ソロ30周年記念ライブ「59-60」@両国国技館」をリリース。吉川晃司とのユニット“Ooochie Koochie”も始動した。
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2025.3.12