2025年2月号|特集 田島照久 MUSIC ARTWORKS

【Part1】アート・ディレクター田島照久ロング・インタビュー

インタビュー

2025.2.3

インタビュー・文/大谷隆之 写真/島田香


でも自分の本領はあくまでグラフィックだと思ってるんです(田島)


── 2月26日にリリースされるBOOK+CDボックス『田島照久 MUSIC ARTWORKS』。作品集となる200ページのアートブックを一足先に見せていただいたんですが……なんというかもう、圧倒されました。

田島照久 はははは、そうですか?

── 盟友ともいえる浜田省吾さんを筆頭に杉真理、尾崎豊。海外アーティストではボブ・ディラン、マイルス・デイヴィス。他にも数多くの一流ミュージシャンのアートワークが一堂に会していて。

田島照久 はい。

── 作品1つ1つの完成度はもちろん、アートブック全体を通して見ると日本のロック/ポップス史における1つの地層がはっきり浮かんでくる。そんな印象を受けたんです。

田島照久 ありがとうございます。昭和、平成、令和。西暦でいうと1970年代初頭から現在まで。まあよく飽きもせず、いろんなアーティストのグラフィックを構成してきたなと(笑)。今回、自分でもアートブック編集に携わらせていただいて、ある種の感慨は抱きました。ただレコード会社からオファーをいただいた際は、ちょっと不安だったんですよ。一般的な音楽ファンの方々は、僕の名前なんてまず知らないでしょうし。果たして商品として成立するんだろうかって。

── へええ、そんなふうに思われていたとは意外です。たしかに斬新で、他で見たことのないプロダクトだとは思いますけれど……。

田島照久 でしょう? ぶっちゃけ「おいおい、本当に大丈夫なのかよ」と(笑)。それで自分なりに理由を分析してみたんですけどね。まず1つには、権利処理の問題があったんだと思う。

── 権利、といいますと?

田島照久 一般的にアート・ディレクションは、カメラマンやイラストレーターなど一緒に組むクリエイターを選定するところから始まりますよね。それらをまとめて1つのグラフィックを構成するわけですが、個々の素材にはもちろん著作権がある。当然この種のブックレットを作るにはその許諾、場合によっては使用料が必要になります。でも僕の場合、写真はすべて自分で撮っていますし。絵筆を握ってイラストも描けば、パソコンでCG画像も作る。すべての著作権が自分の管理下に集約されているんです。企画したレコード会社にとっては、それが好都合だったんじゃないかな。まあ、あくまでも僕の見立てですけれど。

── なるほど。受け手からすると作品内容に目が行きがちですが、そういう視点もありうると。

田島照久 自分で言うのも変ですが、かなりレアな存在ですからね。もちろん、優秀なアート・ディレクターはたくさんいらっしゃいますよ。でもこういう仕事の進め方をする人は、周りを見渡してもほとんどいない。


『田島照久 MUSIC ARTWORKS』
2025年2月26日発売


── いきなり話が本質論になっちゃいましたが、すべてのクリエイションを1人でこなす田島さんの制作スタイルは、どういうところから生まれてきたんでしょう? キャリアを重ねていく中で、自然とこの形に落ち着いたのか。それとも、ある時点で意識的に選ばれたのか。

田島照久 うーん、どうでしょう。持って生まれた性格もあるだろうし。この仕事を始めたときの環境もあった気がする。そもそも僕のキャリアはデザイン事務所ではなく、レコード会社から始まってるんですね。

── 1972年、多摩美術大学のグラフィックデザインを卒業後、CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックレーベルズ)のデザイン室に入られたんですね。

田島照久 はい。当時のCBS・ソニーのデザイン室は洋邦どちらも扱っていまして。所属する日本人アーティストのアートワークだけでなく、洋楽の国内盤も社員デザイナーが手がけていました。いわゆるローカライズの仕事ですね。そうするとアメリカの(合弁相手である)コロンビア・レコードとのやりとりが頻繁に生じる。当時でいうとサンタナ、シカゴ、ボブ・ディラン。そういったミュージシャンのアルバムの版下(製版用の原稿)、色校正、あるいは写真素材などが、ニューヨークやロサンゼルスから送られてくるわけです。

── ワクワクしますね。社会人になっていきなりその仕事内容というのは。

田島照久 もちろん最初はアシスタントですけどね。でも22歳の若造がいきなり、そういう海外の高水準のアートワークに直接触れる機会をもらえたのは、とてもラッキーだったと思う。基礎的な技術をしっかり習得し、ゆくゆくは自分で何でもできるデザイナーになりたいって。大いに刺激を受けましたから。



── 日本とアメリカで違いを感じることもありましたか?

田島照久 それはもう、たくさんありましたよ。細かい行程についてもそうだけど、でも一番大きかったのはデザインという作業の位置づけじゃないかな。向こうのアート・ディレクターってね、自分では手を動かさない人も多いんですよ。鉛筆1本でさらさらっと指示を入れつつ、思い描いたイメージを具現化させていく。たしか入社して5年目か6年目だったかな。ロサンゼルスのコロンビア・レコードを視察に行ったことがあるんです。デザイン室を訊ねてみると、とにかくモノが少ない。雑然とした日本のオフィスとはまるで違う、すっきり洗練された雰囲気でね。こんな何もない空間から、あのバラエティ豊かなデザイン群が生まれてるのかって。びっくりした記憶があります。

── 向こうのアート・ディレクターというのは、文字どおりビジュアル全体の方向づけをする仕事なんですね。1人何役もこなす職人肌の田島さんとは、正反対のあり方にも思えますが。

田島照久 たしかにね(笑)。ただ、プロダクトにおけるデザインの重要性っていうのかな。そこへの敬意の払い方みたいな部分には、やっぱり影響を受けた気がします。ちょっと話が逸れますが、当時コロンビアにはジョン・バーグというアート・ディレクターがいまして。シカゴ、サンタナ、ボブ・ディランをはじめ、誰もが知っているアルバム・カヴァーを膨大に手がけた人ですけど、この方、最後は副社長にまでなってるんです。

── おお、レコード会社の経営にまで参画されていたと。

田島照久 そういうのって日本の企業だと考えにくいじゃないですか。要はアートワークとかデザインという仕事が、会社の根幹に関わるほど重要視されている。もちろんそれも、いい音楽があってのことですけどね。ビジュアルというのは決して添え物ではない。むしろアーティストの作品を構成する非常に重要なピースだということは、CBS・ソニー時代に身をもって体感できた。

── ちなみに洋楽のローカライズというのは、具体的にはどういう作業をされるんですか?

田島照久 わかりやすいのはジャケットに帯を付けたり、日本語ライナーノーツ(解説)のレイアウトを考案したり。あと、日本市場でしっかり売りたいレコードの場合には、あえて本国より豪華な仕様にするケースもあるんですよ。たとえばシングルジャケットのLPを、あえて見開きのダブルジャケットにしてみたりね。そういう場合は内側にアーティストの写真などをあしらいつつ、外側のカヴァーとも調和した、いわば連続性のあるデザインに仕上げなきゃいけない。それも1つのローカライズ作業なんです。


五輪真弓
『少女』

1972年10月21日発売


── 邦楽のアルバムでいうと、五輪真弓さんの『少女』(’72年)、田島さんがCBS・ソニーの社員時代に手がけたアートワークですね。ソフトフォーカスな写真の質感など、どこかキャロル・キングの名盤『つづれおり』(’71年)を思わせる仕上がりで。

田島照久 『少女』は彼女のデビュー作。僕が初めて1人で任されたアルバムですね。当時まだ珍しかったロサンゼルス録音で。サウンド的にも、まさに同時代アメリカの女性シンガー・ソングライターと響き合っている。実際にキャロル・キングがピアノで参加しています。それで話題になってかなり売れましたし、個人的にも思い入れの深い1枚ですね。彼女とは年齢も2つしか違わないので、すぐ「タジマ」「イツワ」って呼び合う友だちになった。それが53年たった今でも続いてるわけで、考えてみれば長い付き合いですよね(笑)。

── 『少女』ではカヴァーの撮影にも、海外の有名写真家が起用されています。でもこのブックレットを見ると、数年後のアルバムではもう田島さんご自身がシャッターを切っている。こういう変化が見てとれるところも、この作品集の興味深いところだなと。

田島照久 五輪さんを撮るようになったのは、4枚目のアルバム『Mayumity うつろな愛』(’75年)からかな。CBS・ソニーのデザイン室備え付けの、ニコンのカメラとレンズを使いました。その頃はまだ、自前の機材は持ってなかったんですよ。何と言っても当時は値段が高かったんでね。そこまで手が回らなかった。ただ自分で撮影すると、まず時間的なメリットが大きいでしょう。


五輪真弓
『Mayumity うつろな愛』

1975年10月21日発売


── そうですね。たしかに。

田島照久 イメージに合わせてカメラマンの方に、オファーして、スケジュールを確認して、打ち合わせる手間がまるごと省けますし。もっと言えば直前までプランが固まってなくても構わない。極端な話、スタジオに入ってライティングしながら、頭の中で考えたっていいわけで(笑)。ジャケットの仕上がりさえよければ、誰からも文句は言われない。社員として少しずつ経験を重ねる中、その利点に気づき始めたのが、おそらく入社3年目くらいだった。

── 入口はあくまでも実践的な理由だったんですね。じゃあ当初は、デザインだけでなくアート表現としての写真も追求したいとか、そういった意識は希薄だったんですか?

田島照久 なかったです。というか、今もそうですよ。自分をフォトグラファーだと思ったことは一度もない。そこは53年間ずっと変わってません。

── え、そうなんですか?

田島照久 はい。僕は、自分の本領はあくまでグラフィックだと思ってるんです。タイポグラフィ(文字)、写真、イラストといった要素をまとめて、1つの世界なりメッセージを形作っていく。その作業がやっていて一番楽しいんですね。でも写真を撮ること自体には、正直そこまでの熱意や愛情はない。これだけ長くやってても、アーティストの撮影は未だに苦痛ですし。

── へええ、意外ですね。想像していたのとまったく違いました。

田島照久 そりゃそうですよ。本人を前にすると緊張もしますし。やっぱりお互いに、気も使いますからね。露出だのシャッタースピードだの、被写界深度だの、いろんな設定も考えなきゃいけないし。少なくとも楽しくはない(笑)。信頼できるカメラマンにお願いして撮ってもらうのが、本当は一番いいわけで。これは別に格好を付けてるわけじゃなく、心からそう思います。センスにしてもテクニックにしても、僕より優れたカメラマンはそれこそ山のようにいますから。

── それでもご自分で撮り続ける理由はどこにあるんでしょう?

田島照久 さっきの話と重なりますが、結局、それが自分にとって楽なんでしょうね。たとえばポートレイト1つ取ってもそう。プロのカメラマンさんは、被写体の一番いい表情なりアングルを捉えてシャッターを切るでしょう。たしかに独立した写真として見れば、そのクオリティは僕には決して出せないものだったりします。でもそれを、アートワークの素材として考えればどうか。そうすると「うーん、もう数ミリだけ角度をずらしたいな」というケースも出てくるし。あるいは「今回のアルバム内容からすると、もっとこの表情がほしいんだけど…」って思うこともある。撮影に立ち会っていると、そういう微妙なフラストレーションが積もっていくわけです。でもそこまで細かく踏み込むのは、写真のプロに対して失礼じゃないですか。

── だったら自分で撮影した方が、双方にとっていいんじゃないかと。

田島照久 うん。自分でやっちゃえば、現場で思い付いたアイデアなんかもすぐ押さえられますしね。たとえばアルバムのカヴァーに、真正面からの顔写真を使うとするでしょう。僕は大抵、同じセッティングで背中側からのショットも撮っておくんです。というのは表4(ジャケットの裏面)のデザイン過程で、対になる1枚が必要になるかもしれないから。でも多くのカメラマンは表紙のことは深く考えても、裏側までは意識しないじゃないですか。

── たしかに。そう考えると田島さんの写真は、どこまでもグラフィックデザイン的な発想で撮影されてると言えるかもしれませんね。

田島照久 だと思います。ただ、それを意識するようになったのは、’78年に会社を辞めて、フリーになって以降じゃないかな。そもそもCBS・ソニー時代は、そこまで頻繁に写真を撮ってませんでしたから。

── 退社の理由は何だったんですか?

田島照久 うーん……若造なりに「やりきった」と感じちゃったのかなぁ(笑)。いい会社で、貴重な経験も積ませてもらったけれど、このままだと新しい展開は望めないような気がして。衝動的にやめちゃったんです。で、仕事のアテもないので、とりあえず少年時代から憧れだったアメリカを旅行することにしまして。

── 1978年というと、田島さんが30代になられる少し前ですね。どのくらいの期間おられたんですか?

田島照久 結局、まる1年間ぶらぶらしていました。当初は1か月程度で帰って来るつもりだったんですよ。でも、とにかく毎日が楽しくてね(笑)。会社員時代の蓄えを食いつぶしながら、オープンチケットの期限ぎりぎりまで滞在してしまった。本当の意味で写真と向き合うようになったのは、この時期からですね。暇だったこともあって、とにかく手当たり次第に撮りまくった。それがきっかけでいろんな出会いがあって、80年代以降の自分の仕事へと繋がっていったんです。

【Part2】に続く)




田島照久 (たじまてるひさ)
アート・ディレクター、グラフィック・デザイナー、写真家 、THESEDAYS 主宰。
1949年福岡県生まれ、多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業。CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックレーベルズ)デザイン室の勤務を経て渡米、1980年よりフリーランスとなり、1992年に現在のデザインプロダクション “THESEDAYS” を設立。浜田省吾、尾崎豊をはじめとする多くのミュージシャンの撮影とパッケージ・カヴァーのアート・ディレクターを務める。仕事はエディトリアル、ポスター、広告、カレンダー、写真集、小説やコミックの装丁などグラフィック全般に及ぶ。 アニメーション関連のデザインも多く『攻殻機動隊』や『機動警察パトレイバー』などは企画の起ち上げ時から関わっている。MACの創成期からコンピュータによるデジタル・デザイン、デジタル・フォトグラフィーに表現分野を拡げ、1994年に世界初のCGによる恐竜写真集『DINOPIX』を発表、欧米でも出版される。自身による著書として、CG写真集、アナログ写真集、デザイン本、小説などがある。近年はPremiere Proを使った映像制作にも積極的に取り組んでいる。

田島照久 MUSIC ARTWORKSオフィシャルサイト http://www.thesedays.co.jp/artworks-0214/index.html
THESEDAYオフィシャルサイト http://www.thesedays.co.jp/
THESEDAYオフィシャル X https://x.com/ttthesedays




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『田島照久 MUSIC ARTWORKS』
2025年2月26日発売
SRCL-13143〜13144/¥13,500(税込)
豪華三方背ボックス仕様/完全生産限定盤
http://www.thesedays.co.jp/artworks-0214/index.html

[ボックス収録内容]

★ART BOOK(作品集)
オールカラー/200ページ/A4横長変型サイズ(200×210)
田島照久が手がけてきたLP、CD、DVD、Blu-rayパッケージ・デザイン、ポスター、広告、グッズ、シミュレーション、各種別バージョンなど貴重なデザイン作品の記録集。厳選240作品以上収録! 作品別の制作ノート付き

★CD(紙ジャケット仕様)
収録曲 *田島照久が選曲したコンピレーション
01. 青空のゆくえ / 浜田省吾
02. Key Station / 杉 真理
03. 瞳・元気 / 永井真理子
04. 笑顔を探して / 辛島美登里
05. 心の友 / 五輪真弓
06. 日付変更線 / 南 佳孝 duet with 大貫妙子
07. 素直になりたい / ハイ・ファイ・セット
08. BRIDGE~あの橋をわたるとき~ / HOUND DOG
09. 僕が僕であるために / 尾崎 豊
10. HARMONY MAKER(A Song of Shogo Hamada) / 田島照久 featuring 澤口のり子

★BOOKLET
2C/28P/歌詞/全曲解説/田島照久による全曲選曲コメント付
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表紙とは別バージョンのアート・カード同梱


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伊藤銀次のネット・ラジオ『POP FILERETURNS』
第463回(前編)/第464回(後編) 田島照久を迎えて
https://otonanoweb.jp/s/magazine/diary/detail/10477

●2月15日(土)22:00~OA
テレビ東京系『新美の巨人たち』
<デザイナー田島照久/尾崎豊「十七歳の地図」レコードジャケット>
 Art Traveler:辛島美登里/ナレーター:磯村勇斗
https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/