2025年1月号|特集 YENレーベル

【Part1】日向大介が語るインテリア

インタビュー

2025.1.16

インタビュー・文/柴崎祐二 写真/山本マオ


「中間音楽」なるコンセプトを掲げ、YENのサブ・レーベルとして発足した「MEDIUM」。同レーベルからリリースされた4人組(当時)バンド=インテリアのデビュー・アルバム『Interior』は、アンビエント・ミュージックと他ジャンルの架け橋となるような先進的な内容で、リリース当時こそ広い理解と支持を得られたとは言いがたかったが、一部のファンには決して小さくないインパクトを与えることになった。

後にニューエイジ・ミュージックの名門ウィンダム・ヒル・レコードの目に止まり、一部編集を経たうえで海外盤(『Interiors』)がリリースされたことからも分かる通り、そのサウンドは、はじめからドメスティックなシーンをはみ出すスケールの大きさを伴っていた。更に後年の2010年代に入ると、同作は折からの環境音楽リバイバルの中で大々的な再評価に浴することとなり、グラミー賞へのノミネートでも記憶に新しいコンピレーション・アルバム『KANKYO ONGAKU: JAPANESE AMBIENT ENVIRONMENTAL & NEW AGE MUSIC 1980-90』に「Park」が収録されるなど、今や、新たな「スタンダード」としての地位を獲得するに至った。

そのインテリアのメンバーのひとりであり、中核として活躍したのが日向大介である。現在の活動拠点であるロスアンゼルスから一時帰国中にロング・インタビューが実現した。自身の音楽遍歴からバンド結成、そしてグローバルな活動に至るまで、じっくりと語ってもらった。



高度なポップスには現代音楽以上の難しさ、奥深さがあると気付いた


── 幼少期のお話から伺わせてください。音楽との出会いはどんな形だったんでしょうか?

日向大介 生まれた家の二軒隣に教会があって、そこで日曜日に讃美歌を歌っていた記憶があります。小学校の頃は、モーツアルトとかクラシックの有名な作曲家の音楽に感動していましたね。教科書の中にいい曲を見つけると、それを兄貴(筆者注:後に音楽家としてデビューする日向敏文)と一緒にハモって歌ってみたり。

── 鍵盤楽器との出会いもその頃ですか?

日向大介 はい。兄貴がやっているのを見て自分でも弾いてみたくなって、ピアノの練習に通うようになりました。

── ポップス系の音楽を聴くようになったきっかけは何だったんでしょうか?

日向大介 1960年代当時、土曜日の午後に大橋巨泉が司会をやっている『ビートポップス』っていうテレビ番組が放送されていて、そこでビートルズの「ヘイ・ジュード」の映像を見たのが最初だったと思います。そこから一気にロックに傾倒していきました。ジェファーソン・エアプレインの映像に衝撃を受けたのをよく覚えています。今思うと、あの番組は色々なバンドを紹介していたんですよね。デイヴ・ディー・グループとか、カウシルズとか……。

── 「牛も知ってるカウシルズ」ですね(笑)。

日向大介 そうそう(笑)。あの当時は洋楽のロックが割と身近で、兄貴もシカゴの来日コンサートに行ったり、エレキギターとアンプを買ってきて練習していたり。僕が風邪を引いて寝込んでいる時、シカゴの来日公演をこっそり録音したテープを兄貴がかけて「これを聴け!」と凄まれた記憶があります(笑)。確か「長い夜」の生演奏だったと思うんですが、うるさい音楽だなあと思いつつすごく心を惹かれて。そこからレッド・ツェッペリンやらエマーソン・レイク&パーマー、グランド・ファンク・レイルロードとか、ロック・バンドの来日コンサートに足繁く通うようになるんです。自分は行けなかったんですが、ブラッド・スウェット&ティアーズの来日公演の演奏にもショックを受けましたね。当時NHKでライヴ音源を流していたんです。あまりの上手さに度肝を抜かれました。

── その後、17歳の頃にお兄さんと一緒にイギリスへ渡られるわけですよね。どういう流れでそういう展開になったんでしょうか?

日向大介 たまたま親父があるイギリス人と日本で知り合いになって。その人から「お前の息子達をジェントルマンにしてやる」って言われたらしいんです。自分としてはそこまで積極的に行きたいと思っていたわけじゃないんですが、すでに自分でもギターを弾いていたし「ジェフ・ベックやエリック・クラプトンが生で見られるかも……」と思って、行ってみようかなという気持ちになったんです(笑)。

── じゃあ、突然イギリスの学校に編入したわけですね。

日向大介 いや、それが向こうでは学校には行ってなかったんですよ(笑)。そのイギリス人の人がファーナムという街で経営しているモーターサイクルのパーツ屋さんで下働きをしながら、実地で英語を覚えました。サッカーも観に行ったし、もちろんコンサートにも沢山行きました。当時はグラム・ロックの全盛期でしたね。自分はそういうのの傍らでロリー・ギャラガーだったり、ブルース系にどんどんハマっていって。ブリティッシュ、アイリッシュ・フォークの人たちの音楽に出会ったのも大きかったですね。スティーライ・スパンとか、ペンタングル、グリフォン、ダブリナーズとかあの周辺の。



── その辺りのアーティストの演奏を生で観ているなんて、ものすごく貴重ですね。

日向大介 今思えばそうですね。もう、みんなものすごくギターが上手くて、感動しちゃいました。近所にあった小屋みたいな会場にフォーク界の名手が毎週入れ代わり立ち代わりやって来るんですよ。なるほど、クラプトンのブルースの向こう側には、こういう世界があったのか、と驚きましたね。その街には東洋人は僕と兄貴しかいなかったので、みんなすごく親切にしてくれて、フォークやブルースのことを色々と教えてくれたんです。アメリカのカントリー・ブルース系の黒人シンガーもそのクラブにはよく来ていました。

── その後、アメリカのボストンに引っ越して、バークリー音楽大学に入るという流れですか?

日向大介 いえ、その前に一旦日本に帰って高校に戻っているんです。もちろん音楽も続けていて、シカゴ・ブルース・スタイルのバンドをやっていました。あの当時、目黒区とか大田区とか、各地の区民会館にそういうシーンがあったんですよ。片や下北沢周辺にはカルメン・マキ&OZとか、金子マリさんとかCharさん達のシーンもあったり。高校生のくせに「奴らはブルースを分かってない、自分たちの方が上手いんだ」って思っていました(笑)。その一方で、ウエスト・ロード・ブルース・バンドとか、サウス・トゥ・サウスとか、憂歌団とか、関西の人たちは「結構いいじゃん」って(笑)。まあとにかく、あの当時は完全にブルース漬けでしたね。

── ジャズとの出会いも同じ頃ですか?

日向大介 ちょうどその頃にウェザー・リポートのファーストを聴いたのかな。けど、ああいうジャズ/フュージョン的なハーモニーとの出会いということでいうと、元をたどればイギリス時代に聴いたアース・ウインド&ファイアーの『灼熱の狂宴』かもしれないですね。なんてカッコいいんだろう、と。こんな音楽をやるにはブルースの語法だけじゃ絶対に無理だなと思って、ジャズを習うしかないと思ったんです。それで、まずは国内で教えてくれるところを探して、ジャズ・ピアニストの佐藤允彦さんが設立したアン・ミュージック・スクールに通うようになるんです。

── へえ! そうだったんですね。

日向大介 同じ時期には笹路正徳(筆者注:後にマライアのメンバーとしても活躍する鍵盤奏者/プロデューサー)とかもいたり。僕はギターの講習を受けていたんですが、副科としてピアノもやることになったんです。そうすると、バークリー・メソッドをやるにしても、何かとピアノの方が論理的に取り組めるので、いつの間にか鍵盤の方が上達していったんです。その頃の本心としては「ギターの方がカッコいいのに、困ったなあ」と思っていたんですけど、ちょうどアナログ・シンセサイザーが普及し出す時期で、いじってみたら音も自由に歪ませられるし、「これいいじゃん!」と開眼したんです。その前はハモンド・オルガンを弾くくらいしか選択肢がなかったですからね。

── それで一気に展望が開けたんですね。

日向大介 そうですね。そこからピアノ科に転身して、当時講師をやられていた板橋文夫さんに出会うんです。アドリブの弾き方をすごく熱心に教えてくれたり、バークリーへの推薦状を書いてくれたり、本当に色々と助けてもらいました。授業の後にも生徒みんなを横浜の中華街にタクシーで連れて行って飯を食わせてくれたり。お金も大変だったと思うんですが、本人は全然気にしていなくて。ライヴを観に行っても猛烈な演奏をされていて……全く素晴らしい方ですね。

── そうした経験を経ていよいよバークリーに入学される、と。

日向大介 はい。アン・ミュージック・スクールにいた当時、慶應のジャズ研から二人習いに来ていて、その連中と僕でウェザー・リポートの真似ごとみたいなバンドをやっていたんです。同時に、ジョン・コルトレーンをはじめ、オーネット・コールマンとかアルバート・アイラーとかフリー・ジャズ系にも傾倒していって。そういうことをやっているうちに、じゃあ一番上手いやつが集まるところに行ってみようということで、バークリーに行くことにしたんです。最初はやっぱりピアノで入ったんですが、後に電子音楽の科に移りました。

── そこでは、演奏や電子工学的な技術に限らず、音楽理論についても学ばれたわけですよね。

日向大介 はい。はじめはマルチ・トーナルとかペンタトニックの研究をしていて。ある時、別の科のポール・シュメリング先生に、自分なりに考えたアドリブに関する理論を話しに行ったんです。そうしたら「なるほど面白いから来週から私の講義を受けても良い」と言ってくれて。そこから理論を突き詰めて考えていくことになるんですが、なんといえばいいか、結局各人が好きなように決まりを作っているだけのようにも思えてきて。それから、後にインテリアを組むみっちゃん(沢村満)と一緒に色彩を使って譜面を書くソニック・デザインの手法をやってみたりもしたんですが、結局、耳で聴いて気持ちの良い音の世界から遠ざかってしまっている気がして、だんだん現代音楽の手法も息苦しくなってきてしまったんです。

── ポップスやロックも聴き続けてはいたんですか?

日向大介 一時期離れてしまっていたんですが、ある日、ドーナツ屋でポインター・シスターズとかマイケル・マクドナルドの曲がかかっているのを聴いて、「なんて魅力的なんだろう」と心を奪われてしまって。そこから一気にアース・ウインド&ファイアー的な世界へ戻っていきました。やっぱり、高度なポップスには現代音楽以上の難しさ、奥深さがあると気付いたんですね。それで、学内の連中を中心にしてプログレッシヴな要素の入ったフュージョン・バンドを組んだんです。



── それが、沢村さんと組んだCAMERAというバンドですか?

日向大介 はい。それとは別に、トップ40の曲をやるパーティー・バンドみたいなこともやっていました。当時、ブランフォード・マルサリスとかマーヴィン・“スミッティ”・スミスとか、ジョン・プライスとか、後に有名になるミュージシャンが周りにいて、彼らとも頻繁に演奏していましたね。

── 後にインテリアのメンバーとなる野中英紀さん、別当司さんともその頃にはすでに知り合っていたんですか?

日向大介 はい。中でもみっちゃんとはルームメイトだったこともあってしょっちゅう一緒に行動してました。けれど、結局彼ら3人は僕よりも先に日本に帰ってしまって。

── インテリアはバークリー在学中に結成されたわけじゃないんですね。

日向大介 そうなんです。なかなか複雑な経緯があって、彼らは彼らで日本に帰ってからバンドをはじめるんですけど、僕の方は引き続きボストンに残って音楽を続けるんです。その頃に出会った一番重要な存在が、スティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックです。元々ペンタトニック・スケールを研究していたこともあって、彼の手法は、シェーンベルクの理論の一部をペンタトニック上でスピード感をもって再現したものではないかと分析して、そのアイデアの鋭さに感銘を受けました。ライヒの作品の重要なところは、いわゆる「グルーヴ」がある、という点なんですよね。あえて言うなら、リズム&ブルースの要素を感じるんです。逆に言えば、彼以外のミニマル・ミュージックの巨匠と呼ばれている人たちの音楽が魅力的に思えないのも、まさにその感覚が欠けているよう感じるからなんですよね。

── その当時はブライアン・イーノも聴いていましたか?

日向大介 ちょうどライヒの後に聴いた記憶があります。アンビエントという音楽の形態とそのコンセプトもすごく面白いと思いました。一方で、日本に帰ったみっちゃんもミニマル・ミュージックとかアンビエントを聴いている時期で、ドビュッシーの「月の光」をミニマル風にアレンジしたデモ・テープを作り出すんです。

── 時代を考えると、かなり先進的な試みですよね。

日向大介 当時、MXRのデジタル・ディレイが普及しだした時期で、パット・メセニーが使ったりもしていたんですが、いち早くそれをミニマル風のアレンジに使ったということですね。その辺りの話は僕のあずかり知らぬところなんですが、どうやらアメリカにいた時に聴いたYMOのことを思い出して、当時ミニマル・ミュージックに傾倒していたらしい細野(晴臣)さんにいかに気に入ってもらえるかを研究しながら、そのデモ・テープを作ったらしくて。それで実際に細野さんに聴いてもらう機会を得たと聞いています。

── アメリカに残った日向さんはどんな活動をされていたんですか?

日向大介 ボストンを離れて、ロスアンゼルスの音楽シーンの中で色々やっていましたね。当時アメリカに進出していたイギリスのベイビーズとか、ミッシング・パーソンズとか色んなバンドのセッションに参加したり。その時点ではシンセサイザーのプログラマー兼奏者になりたいと思って自分のデモを作ったりもしていたんだけど、なかなか思うようには上手くいかなくて。それで日本に戻ることにしたんです。それでみっちゃんたちと合流するんだけど、ミッシング・パーソンズとかそういうバンドに影響を受けまくっていた時期なので、彼らに「もっとポップなものをやろうよ」と提案したんです。

── そこでついに4人組バンドとしてのインテリアが始動するわけですね。今のお話からすると、初期のインテリアの音楽に滲んでいるある種のポップさみたいなものは、日向さんが持ち込んだものだったということですね。

日向大介 そうだと思います。キーボードという楽器の特性もあって、音楽的な広がりを出しやすかったというのもあって。

── 今回再発されたファースト・アルバムのライナーノーツによると、インテリアというバンド名は、ウディ・アレンの同名映画から取られているらしいですね。

日向大介 はい。僕が帰ってきた時点で他の三人がめちゃくちゃ仲が悪くて(笑)、みっちゃんは生粋のプレイヤーであり理論派だから、他の二人にすごく厳しかったんですよ。だから、ギスギスした人間関係が描かれているウディ・アレンの『インテリア』という映画の名前がピッタリだということになったみたいです(笑)。

── YENからデビューする以前にはどんな活動を行っていたんですか。

日向大介 ライヴもわりと頻繁にやっていたんですが、ファッション・ショーとか音楽がメインではない現場が多かったですね。アンビエント的な演奏の上に激しいギターを重ねたりとか。それが後にデビュー盤の帯にも書かれている「ハード・アンビエンス」というコンセプトに繋がっていったように思います。

【Part2】に続く)




●日向大介 (ひなた・だいすけ)
音楽プロデューサー、作曲家、キーボーディスト、シンセシスト、シンセサイザープログラマー、レコーディング・エンジニア、スタジオ設計者。1956年7月2日生まれ、東京出身。バークリー音楽院で学んだ後、インテリアを結成し、アルバム『Interior』(’82年)、『Design』(’87年)を発表。90年代にはCAGNETを率いて『ロングバケーション』(’96年)など数々のドラマのサウンドトラックを手掛ける。また、松たか子のデビュー曲「明日、春が来たら」(’97年)のプロデュースや小室哲哉との共演など、多岐にわたって活動。現在は、アメリカのカリフォルニアに構えているレコーディングスタジオ「Variable Speed Audio STUDIO」代表取締役。レコードレーベル「hyperdisc」のオーナー。

https://www.daisukehinata.com/
https://www.youtube.com/@encountertokyo