2025年1月号|特集 YENレーベル

【Part1】太田螢一が語るゲルニカとYEN

インタビュー

2025.1.6

インタビュー・文/村尾泰郎 写真/山本佳代子


1982年に登場したゲルニカのアルバム『改造への躍動』は、当時の音楽シーンに大きな衝撃を与えた。それと同時に、始動したばかりのYENレーベルがどういう方向に進むのかというひとつの指標でもあり、このレーベルに期待するリスナーのワクワク感を体現した作品とも言い換えられるだろう。歌唱を担当した戸川純、サウンド面でイニシアチヴをとった上野耕路の重要性は言うまでもないが、絶対に欠かせないのが太田螢一による“音楽以外”のアートワークや歌詞、ステージ演出などである。ここでは彼の美学がどのようにゲルニカに活かされていったのか、そのルーツやゲルニカ以降の活動も含めてじっくりと語ってもらった。


自分がやりたいことを見つけるのが重要で、それをやれるだけの技術を持っていれば良い


── いきなりの質問ですみません。太田さんの「螢一」という名前が珍しくて気になっていたのですが本名なのでしょうか?

太田螢一 本名ではないです。高校の時、文章を書くのが好きでいろいろ書いて国語の先生に褒められたりしていたんですけど、そのうちに「本名は面白くないな」と思って自分でつけたペンネームなんです。「螢」というのは「螢光灯」とか「螢光色」とか、みずから輝いているような文字でしょ? それが気に入ったんです。

── 本名は「ケイイチ」で「ケイ」だけを変えた?

太田螢一 そうです。この名前でデビューした時は「なんで本名じゃないんだ」って言われたこともありましたが、文学者には名前を変えている人が多いじゃないですか。「螢」には僕が好きな作家、小栗虫太郎の名前と同じ「虫」の字が入っているのも嬉しかったですね。

── 太田さんは’83年に虫太郎の小説からインスパイアされたアルバム『太田螢一の人外大魔境』を発表していますが、子供の頃から好きな作家だったんですね。

太田螢一 大好きでしたね。読書にのめり込むようになったのは小学生の終わり頃かな。北杜夫なんかを読んでいましたよ。『夜と霧の隅で』は名作だと思います。あとはアンドレ・ジッド『狭き門』とかフランツ・カフカ『変身』とか。それと父親の書棚の沢山の古典的なSFやミステリー、『山椒魚戦争』や『モロー博士の島』……。

── 文学青年、いや、文学少年だったんですね。小学生だと、同じような本を読んでいる同級生はいなかったのでは?

太田螢一 いませんでしたね。文学が好きだったというより、とにかく本が読みたくて岩波文庫のひとつ星の本を手当たり次第に読んでいました。ひとつ星ってわかります? 昔、岩波文庫は本の価格のところに星が描かれていて、星ひとついくらっていう計算だったんです。

── 薄くて安い、子供のお小遣いで買える本をたくさん読んで、そこで身につけた文学的な教養が後に作詞の仕事で活かされるわけですね。

太田螢一 小学高学年の頃(60年代後半)はカウンター・カルチャーの時代に突入していて、世の中の雰囲気にも刺激を受けていたんですよ。それで本に興味を持った。あと、小学校の先生が抽象画を描かれているような文化的な方で、その先生にいろんなことを教えてもらったんです。兄が聴いていたボブ・ディランとかグループサウンズを聴いて音楽に興味を持ったり。

── 時代の波が押し寄せていたんですね。

太田螢一 いちばん衝撃的だったのはツイッギーの来日ですよ。

── ミニスカートの女王! スウィンギング・ロンドンのアイコンだったツイッギーが来日したのはビートルズ来日の翌年、1967年。太田さんが10歳の頃です。

太田螢一 ツイッギーのミニスカートを見て「これからの時代はこれだ!」って思いました(笑)。それ以来、タミヤのドイツ戦車のプラモを作ったり、怪獣のカードを集めたりしているクラスの友達が子供に見えましたね。そんな風に周りにがっかりする感じは、その後に何度もありました。高校に入った時も、東京に出てきた時も、周りを見渡してがっかりした。子供の頃から「もっとすごいもの、もっと刺激的なものに出会いたい!」と思い続けてきたんです。



── そのきっかけがミニスカートだったんですね。

太田螢一 実はその前にも衝撃があって、それは絵でした。母親が趣味で油絵を描いていたのですが、その横で僕も一緒になって絵を描いていたんです。

── 油絵が趣味だなんて素敵なお母様ですね。太田さんのホームページを拝見すると、3歳にしてイーゼルに向かう太田さんの写真が紹介されています。

太田螢一 当時は一般家庭にテレビがなくて、週刊の漫画雑誌もなかった。娯楽に乏しい時代だったんです。そんななかで、絵本を買うより自分で好きな絵を描いた方が面白いと思って描き始めました。そして、母親が持っていた画集を見てフランソワ・ブーシェの「水浴のディアナ」という作品に衝撃を受けたんです。

── ブーシェはロココ期を代表するフランスの画家。「水浴のディアナ」はギリシャ神話を題材にした絵ですが、ディアナの豊満な裸体は、ちびっこには刺激が強かったのかもしれません。

太田螢一 ブーシェの時代の神話画ってポルノグラフィ的なニュアンスがあるんですよ。それに惹かれてみんな夢中になる。

── ミニスカートの前に裸体画に衝撃を受けたとは、おませな子供だったんですね(笑)。

太田螢一 そうですねえ(笑)。でも、昔の神話画は絵の中に描かれているものすべてに意味があるんです。抽象画のように観客の想像に任せるのではなく、画家が絵という言葉で何かを語っている。自分の作品も、そういうものを目指しているんです。ひとつの景色がメタファーになっていて、そこから意味が浮かび上がってくるようなものにしたい。

── 太田さんの絵に対する姿勢は、子供の頃の体験がベースになっているんですね。そして、太田さんは画家ではなくイラストレーターという職業を選ばれました。

太田螢一 当時、イラストレーションというとポップアートの代名詞みたいなところはあったんです。横尾忠則さんとか宇野亞喜良さんとかが注目を集めていたこともあって、本屋の洋書のコーナーでポップアートの作品集をこっそり見たりしていました。なかでも、ジェームス・ローゼンクイストの「成長計画」っていう作品には大きな影響を受けましたね。その絵は大阪万博で見たのかなあ。

── 大阪万博は1970年。太田さんが13歳(中1)の頃です。万博とポップアートとは時代の先端を行っていますね!

太田螢一 でも、万博って面白くなかったですね。ただ広いだけで。コンパニオンという言葉を初めて知ったのは万博でした。ミニです(笑)。

── パビリオンよりミニスカートのコンパニオンの方が魅力的だった(笑)。太田さんは高校に入学して、のちに「8½」(はっかにぶんのいち)、「ハルメンズ」、「ヒカシュー」、「ヤプーズ」など様々なバンドにドラマーとして参加する泉水敏郎さんに出会われます。その後の展開を考えると重要な出会いですね。

太田螢一 泉水君とは高1の時に同じクラスでした。当時、千葉では音楽シーンが活発だったんです。音楽をやっている人のなかでアメリカン・ロック好きとか、ハード・ロック好きとか、いろんなセクトに分かれていたんですけど、泉水君はそうしたセクトとは関係なく、いろんなアマチュア・バンドに参加していましたね。

── その頃、太田さんはどんな日々を送っていたのでしょうか。

太田螢一 僕は西千葉にある「沙羅」っていうロック喫茶に毎日のように入り浸っていました。 学生服を着ているのに口から煙を出したりしちゃってね(笑)。手品の練習です(笑)。沙羅の常連客のなかでは僕が最年少で目上の人たちに憧れていましたね。沙羅のオーナーもそうでしたが、京都やほかの土地からきた人が千葉でカウンター・カルチャーのシーンを作っていたんです。そういう人達が主宰したロック・コンサートにもよく行きました。そういうコンサートはヒッピーカルチャーの名残があってライトショウとかをやるんですよ。「裸のラリーズ」も観ましたよ、千葉大の講堂で。

── それはすごい! 先輩たちの影響を受けて、いろんな音楽を聴かれていたんでしょうね。

太田螢一 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとかグレイトフル・デッドとかロック喫茶でかかっていたようなものも聴いていましたが、家ではT.レックスとかロキシー・ミュージックとかキッチュなグラム・ロックを聴いていました。僕は汗臭いものよりロマンティックなものが好きだったから、一部のプログレなんかも聴いていましたね。



── ニュー・ウェイヴ前夜、という感じですね。音楽をやろうとは思わなかったんですか?

太田螢一 思いませんでした。周りの連中がみんな音楽をやっていたから、そこは任せようと。僕は自分の中から生まれてくる、いろんなヴィジョンに浸っている方が好きだったんです。

── そうした夢想がのちにゲルニカを生み出すわけですね。太田さんは高校を卒業して東京のデザイン学校に行かれますが、そこで「FOX」こと高橋修さんと出会います。高橋さんは後に様々なアルバムのジャケット(ハルメンズ『20世紀』、PSY・S『Different View』、『陽気な若き水族館員たち』など)のイラストを担当。後に戸川純さんがカヴァーしてヒットするハルメンズ「レーダーマン」の歌詞を手掛けるなど作詞家としても活躍されて、太田さんと同じようにアート側からニュー・ウェイヴに深く関わります。これもまた運命的な出会いですね。

太田螢一 高円寺にJINJINというロック喫茶があって、そこで高橋君に出会ったんです。彼は岩手から上京して芸大を目指して浪人をしていたんですけど、彼と話があってワイワイやっているうちに一緒に活動するようになったんです。おかげで彼は芸大に行くという目標がパーになったけど、自分が向かう方向性が決まったんだからそれでいいんですよ。重要なのは目指す方向性を見つけることで、技術なんて後からいくらでも身につきますから。必要以上に技術を身につけると、それに寄りかかってしまって自分の技術を活かしたものを作ろうとする。それではダメなんです。自分がやりたいことを見つけるのが重要で、それをやれるだけの技術を持っていれば良い。これは若い人に言っておきたいですね。

── 思えばニュー・ウェイヴも演奏技術よりアイデアやヴィジョンを大切にする音楽でしたね。太田さんと高橋さんは’78年に「パノラマ・アワー」という美術グループを結成されます。そこでどんなことをやろうと思われていたのでしょうか。

太田螢一 ニュー・ウェイヴの音楽みたいに、ちょっと屈折したポップなアートをやろうと思ったんです。高橋君とは好きな音楽が重なっていたりして波長があったんですよ。打てば響くという感じでしたね。彼は僕よりは静かな感じの音楽が好きでした。クレプスキュールのアーティストとか。

── それは作風に表れていますね。太田さんと高橋さんの作風はまったく違いますが、2人が生み出したイラストや歌詞は日本のニュー・ウェイヴに独創的な世界観を生み出しました。パノラマ・アワーの記録がほとんど残っていないのが残念ですね。

太田螢一 グループに集まったメンバーの力量がいまひとつで(苦笑)。僕と高橋君だけが必死に頑張っていました。自分たちの創作よりも展覧会という場を作るのが大変で、結局、展覧会を2回やって自然消滅しちゃったんです。

── その展覧会に使用する音楽を、太田さんは泉水さんと後にゲルニカを結成する上野耕路さんに依頼します。当時、2人は東京のニュー・ウェイヴ・シーンで注目されていたバンド、8½のメンバーでしたが、バンド名をつけたのが太田さんだとか。

太田螢一 8½の前のバンド(WINK)の時から泉水君や中嶋君(メンバーの中嶋一徳。のちに脱退して「自殺」に加入)と一緒にワイワイやっていたんです。それで新しいバンドの名前をみんなで考えていた時に、数字がいいんじゃないかと思ってフェリーニの映画のタイトルを拝借しました。フェリーニが好きだったので。

── 泉水さんと上野さんが書いた曲のうち、「戒厳令」は後に8½とゲルニカで。「ボ・ク・ラ パノラマ」は「パノラマ・アワー」とタイトルを変えてハルメンズとゲルニカで。「落日」はゲルニカで。「リズム運動」はハルメンズで歌われます。パノラマ・アワーはグループとしては短命でしたが、上野さんと太田さんの初の共同作業という点でゲルニカ誕生のきっかけであり、さらに言えば千葉発ニュー・ウェイヴの土壌を作ったとも言えるかもしれませんね。

太田螢一 でも、我々は千葉では少数派だったんです。音楽をやっている人たちの多くはアメリカン・ロックを聴いていたし、若い人たちの間ではフュージョンが流行っていて、彼らはオリジナルの曲はほとんどやらずに、一生懸命、海外のバンドのコピーをしていました。僕たちは「なんだこいつら」って思っていたけど、きっと向こうも僕らのことをもっとそう思っていたでしょうね(笑)。

【Part2】に続く)




●太田螢一 (おおた・けいいち)
1957年千葉市産まれ。幼少期よりお絵描きに親しみ様々なカルチャーを吸収。奇妙なレトロ・リアリズムを模索しつつ現在に至る。「パノラマ・アワー」「衛生博覧会」主催。ゲルニカの活動以外にソロアルバム「人外大魔境」、ヒカシュー「うわさの人類」をはじめLPジャケット、映画「ドグラマグラ」ポスター、新聞・雑誌挿絵連載等々。画集「AMNESIA」、絵本「働く僕ら」、フランスより「LE GARGARISME」「THE BLOB」、ポスター等発表。都内に現存。

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