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EPO スペシャル・ロング・インタビュー

インタビュー

2025.4.15

文/栗本斉


ミュージシャンもアレンジャーも楽しんでいるけれど、その裏には綿密な仕掛けがあるのがシティポップ



 1980年に颯爽とデビューし、ポップなメロディと溌溂とした歌声で音楽シーンをカラフルに彩ったEPO。昨今のシティポップ・リバイバルの影響もあり、RCAレーベルからリリースされた初期6枚のアルバムが新装でリイシューされ、精力的にライヴ活動も行っている。2025年はデビュー45周年という節目の年であり、新たな展開も準備中だというEPOに、ここではあらためてデビューからRCA在籍当時のことを中心に、これまでの音楽活動を振り返ってもらった。


日記を書くように曲を書いていて、そのまま作品にしたという感じだった

──EPOさんは高校時代からバンド活動をされてきて、清水信之さん(キーボード、アレンジャー)や佐橋佳幸さん(ギタリスト)と同じ学校だったというのは有名な話です。軽音楽部だったんですか。

EPO はい、都立松原高校ですね。実はバンド活動は禁止されていて、軽音楽部はなかったんですよ。住宅街にある学校だったので厳しくて。

──え、そうだったんですか。

EPO だから、部活というよりは放課後にみんなで集まって遊んでいるような感じでしたね。佐橋くんたちとやっていたのは1年生から3年生の混合バンドでした。それとは別に、私が高1の時に、高2の先輩たちとバンドを組んでいて、ニッポン放送の「ライオン・フォーク・ビレッジ」という番組主催のコンテストに応募したら、東北・関東・甲信越の代表になったんですよ。

──それがプロになるきっかけの第一歩だったんですね。

EPO でもそのバンドでは、私はリード・ヴォーカルではなくて、ピアノとコーラス、あとは楽曲提供という役割で、メインで歌ってなかった。それなのに、レコード会社の方から「プロになりませんか」ってお話をいただきました。

──よほど存在感があったんでしょうね。

EPO でも大学に進学したかったのでその話はお断りして、日本女子体育大学に入学してから、少しずつアルバイト的にスタジオで歌ったりし始めました。

──竹内まりやさんのディレクターだったRCAレーベルの宮田(茂樹)さんに出会うのはその頃ですか。

EPO そうですね。そのあたりの記憶があやふやなんですけれど、宮田さんに呼ばれて、竹内まりやさんや大貫妙子さんのレコーディングでコーラスのお手伝いをさせてもらったりしながらデビューの準備をしていました。

──デビュー・アルバム『DOWN TOWN』(’80年)を制作する際に、こういうものを作ろうといったコンセプトはあったのでしょうか。

EPO とくにそういう話はなかったと思います。高校生の時から日記を書くように曲を書いていて、そうやってできたものをそのまま作品にしたという感じでした。ただ、シングル候補にできるような曲がないという話になって、会議で煮詰まったそうなんですよ。それで「シングルになるような曲を書いてみない?」って提案されたんですが、そういうことを意識して曲を作ったことがなかったし、どうしようってことになって……。



『DOWN TOWN』
1980年3月21日発売


──たしかにデビュー前だと難しい注文ですね。

EPO 当時、RCAに小さなプライベートスタジオがあって、そのロビーにいたら目の前を(山下)達郎さんが通りかかったんですよ。ちょうど『RIDE ON TIME』の頃です。それで私は何かに背中を押されるような感じで声をかけて、「達郎さん初めまして。私、今度デビューするEPOっていうんですけど、中学の頃からSUGAR BABEの<DOWN TOWN>が大好きで、デビューにあたってあの曲をシングルとしてレコーディングさせてもらえないでしょうか」って直接お願いしたんですよ。

──すごい行動力!

EPO よくもそんな大胆なことができたなって思うんですけど(笑)。でも達郎さんは「歌いたかったらどうぞ」っておっしゃってくれて、それでカヴァーすることになったんです。だから今も達郎さんには感謝の気持ちでいっぱいです。「DOWN TOWN」でデビューできて、あの曲があったからみなさんが私のことを知ってくれたっていうのは大きいですから。

──「DOWN TOWN」以外は、アマチュア時代に書き溜めていた曲を集めてデビュー・アルバムに仕上げたということでしょうか。

EPO そうですね。この間ライヴで佐橋くんたちと「語愛(かたらい)」をやったんですけれど、「この曲は高校の時に一緒にやりましたよ」って言われました。あと、曲もそうだしアレンジもベーシックは自分でやっていて、それを清水信之さんに伝えて、さらに華やかに増幅するというか、具体化してもらいました。私の作品での信之さんのアレンジは最高ですよね。他のアーティストさんもみんなそう言うと思いますけど(笑)。


メディアを通して知られることの嬉しさの反面、受け止めきれないこともあった

──デビュー作でまずひとつの形ができて、その頃はどういうアーティストになろうというイメージはありましたか。

EPO それはまだなかったですね。ずっとこういうことをやっていくのかということすらわからなかったですし。音楽は天職だと思っている反面、自分らしくない方向に行ったらいつでもやめるだろうって思っていました。結構ドライだったので、取材でそういう話をするとレコード会社の人に怒られましたけれど(笑)。だからイメージはそんなになかったんですが、カレン・カーペンターが大好きだったから、そんな感じになりたいというのはぼんやりとあったかもしれない。

──ああいったミドル・オブ・ザ・ロードというか、王道のポップスを歌っていきたいという意志があったんですか。

EPO そうしなきゃいけないというか、私はスキャットみたいなフリーなジャズもクラシックも好きだったので、ポップスをやるということは、制約があるということは感じていました。

──『DOWN TOWN』から半年ちょっとでセカンド・アルバム『GOODIES』(’80年)がリリースされますが、これはニューヨークとロサンゼルスで録音されています。

EPO アメリカに行ったのは初めてで、むこうのミュージシャンやオーケストラの素晴らしさに圧倒されました。あと、すごく印象に残っているのは、ロジャー・ニコルズの家に行ったこと。竹内まりやさんがロジャー・ニコルズと一緒にやる曲があって、その打ち合わせに私もちゃっかりついていったんです(笑)。彼は「そんなにヒットしているんだったらプール付きの家は買った?」って聞いていて、まりやさんは「日本ではそんなことはあり得ません」って会話していたのを覚えています。それくらい、海外での体験はすべてのレベルが違っていましたね。



『GOODIES』
1980年11月21日発売


──『GOODIES』にはEPOさんの憧れだった達郎さんがアレンジした曲(「GOODIES」、「分別ざかり」)も入っていますが、これはEPOさんからリクエストしたんですか。

EPO あまり覚えていないんですが、それは宮田さんのアイデアだったような気がします。

──「Park Ave.1981」はキリンレモンのCMソングになりました。

EPO なんだか不思議な感じというか、恥ずかしいというか、他人を見ているような感覚でした。自分のことだっていう感じもあまりなかったですね。

──この曲もそうですし、「DOWN TOWN」が翌’81年に始まったバラエティ番組『オレたちひょうきん族』のエンディングテーマとして流れるようになって、これでEPOさんの名前も一気に浸透したと思います。

EPO たしかに自分の名前や音楽を知ってもらう機会になりました。でも相変わらず私は普通の体育大生だったし、それまでも普通の高校生だったから、芸能界に入りたかったわけでもないですし、普通の感覚のままでした。だから、メディアを通して知られることの嬉しさもありましたが、ちょっと怖いなって思うこともあって、受け止めきれないこともありましたね。

──『オレたちひょうきん族』のタイアップが始まって、その少し後に『JOEPO〜1981KHz』(’81年)がリリースされます。架空のラジオ番組のように構成された、いわゆる企画盤です。

EPO これは宮田さんが、私の特性をよくわかっていてやらせた企画なんじゃないかなって思います。メインで歌うよりも、コーラスなどの裏方仕事がすごく好きだったんです。それで、全国のラジオ局にプロモーションの一環で、「あなたのラジオ番組のサウンドステッカーをEPOが作ります」というキャンペーンを行ったんですね。そうしたらすごくたくさん連絡が来て、本当にたくさんのサウンドステッカーを多重録音で作りました。その番組にはもちろんゲストに出てプロモーションできますから(笑)。



『JOEPO〜1981KHz』
1981年9月21日発売


──それは画期的な宣伝方法ですね。

EPO 本当にいい想い出ですし、そういうことをやっているうちに、自分の声の活かし方をつかんだりして、勉強になりました。

──そんな経験を経て『う・わ・さ・に・な・り・た・い』(’82年)を発表されますが、レイ・パーカーJr.の曲が入っていたりしますね。

EPO 「Girl in me」ですね。でも実はこのあたりのことはあまり記憶がないんですよ。どういういきさつでこの曲を歌うことになったのか。



『う・わ・さ・に・な・り・た・い』
1982年5月21日発売


──このあたりからソウルミュージックのテイストが多めになってきたという印象なのですが、そこは意識されていたのでしょうか。

EPO 当時、ソウルがすごく好きだったというのはありますね。それで自然とブラック・コンテンポラリーとか、そういう雰囲気になっていったんじゃないかな。音楽はなんでも好きなので、それだけではないんですけど。


RCA時代は辛いこともあったたけれど、今となっては全部感謝でしかない

──「う、ふ、ふ、ふ、」が収められた『VITAMIN E・P・O』(’83年)も、「土曜の夜はパラダイス」のような華やかでソウルフルな楽曲がありますし、EPOさんの志向性の変化が感じられます。

EPO そうですね。自分の中にあるビートと合っている感覚がありました。もちろん、ソウル一色になるとそれはそれで自分が飽きちゃうので、1枚のアルバムにいろんなテイストが入っているんですけれどね。



『VITAMIN E・P・O』
1983年4月5日発売


──「う、ふ、ふ、ふ、」は資生堂のタイアップで大ヒットしましたし、ここでまたEPOさんの周辺環境が変わったのではないですか。

EPO すごくありがたいことだったんですが、周りの期待度も大きくなってしまって、その期待にこたえなくてはいけないというプレッシャーに変わっていきました。若いから頑張ることができたんでしょうね。売れるということを考えていくのがプロなのか、この期待に応えないと私には価値がないのか、なんて変な思い込みみたいなものもあって、ちょっと辛くなったこともありました。

──確かに半年に一枚ペースでアルバムも制作されていますし、相当お忙しかったことが想像できます。

EPO 次から次へと曲作りをして、ライヴもあるし、音楽以外の体験が何もできない日常がずっと続きました。遊びにも行けないし、ボーイフレンドも作れない(笑)。自分をチャージすることができずに、どんどん消耗していく感覚がありましたね。だから、あの頃の自分に「ゆくゆく楽になるから悩まなくて大丈夫だよ」って言ってあげたいくらいです。

──そんな速いペースで、RCAから移籍する前の最後のアルバム『HI・TOUCH-HI・TECH』(’84年)をリリースしますが、これはまた一転してテクノポップっぽいテイストになっていますね。

EPO やっぱり当時の時代をすごく意識していたんでしょうね。『HI・TOUCH-HI・TECH』というテーマもレコード会社から提案されたと思います。すごく頑張って作ったアルバムですね。



『HI・TOUCH-HI・TECH』
1984年2月21日発売


──高見知佳さんに提供した「くちびるヌード」や、アルバムには収録されていませんが、その後、香坂みゆきさんに提供した「ニュアンスしましょ」あたりはオリエンタルなメロディが印象的で、この頃のEPOさんのテクノポップ風のサウンドとすごく合っていたと思います。

EPO 自分の中のアジア観というか、日本人であるということと、“HI・TECH”なものとなんとなくバランスを取っていたのかなと思います。“HI・TOUCH”はそういったアジア的な温かさみたいなものですかね。サウンドは“HI・TECH”だけど、メンタルは“HI・TOUCH”という感じでしょうか。

──デジタルでありながら、シュガー・ベイブ(伊藤銀次が後にセルフ・カヴァー)の「こぬか雨」のカヴァーのようなメロウな曲もあって、すごく不思議な作品です。

EPO 統一感がないですよね(笑)。どこに行きたいんだろうっていう、それが私の特徴かもしれない。

──たしかに「EPOさんの特徴は?」と聞かれてもひとことで言えないですね。

EPO 自分の中から出てきたものは、自分らしいと思うからそれを発信していくだけですね。たくさん乗り物があって、どこへ行っちゃうんだろうっていう感覚です。

──そう思えば、その後のEPOさんはロンドンに行ったり、ブラジル音楽を始められたりと、いろんな音楽を吸収してアウトプットしていくという姿勢は、まったくぶれていないんでしょうね。

EPO その後、20代後半になって、もうポップスをやらなくてもいいかな、好きなことをやればいいかなと思ったんです。それでロンドンに行ったりして今に至ります。

──今振り返ってみて、RCA時代のことはどう感じていますか。

EPO やっぱり今の私の土台になっていますね。いろんなエピソードはあるし、辛いこともありましたけれど、今となっては全部感謝でしかないです。

──昨今はシティポップのリバイバルの流れで、この時期のEPOさんの音楽が語られることも多いと思いますが、そのことについて思うことはありますか。

EPO (清水)信之さんとの仕事ですごく思ったことが、アレンジャーがしっかりとした設計図をもとに作っていたんですよ。建築を造るように。それと、当時はスタジオ・ミュージシャンがいましたよね。基本的にはアレンジャーの言うとおりに弾くんですが、演奏に自身のパッションを込めるというか、そういう音作りをしてきたんです。グルーヴがあって再現可能な音楽ですね。そういったプロセスを踏んで作られたものがシティポップなんじゃないかって最近すごく思うんです。ミュージシャンもアレンジャーも素晴らしいし楽しんでいるけれど、その裏には綿密な仕掛けがある。信之さんのアレンジは全部そうですね。最近は私も自分でアレンジしますが、そこはすごく影響を受けています。

──それは面白い解釈ですし、すごく納得しました。信之さんもそうですし、大村憲司さんや(山下)達郎さん、林哲司さんなど一流の方々とお仕事してきたEPOさんだからこと実感できるということなんでしょうね。

EPO 本当にその通りです。その大切さがわかるっていうか、しっかりと地図を読んで旅をする感覚ですね。

──最近は土岐麻子さんやGOOD BYE APRILといった若い世代のミュージシャンと共演することも多いですが、そのあたりはどう感じられていますか。

EPO 年齢は違いますが、音楽との向き合い方は何も変わらないですね。私たちの世代が大切にしているものを、彼らも大切にしている。そういう人たちにまた出会えたっていうのはすごく幸せです。土岐さんなんて、私、ただのファンですから(笑)。

──EPOさんはここ最近、またライヴ活動が増えているように思うのですが、今後の具体的な予定はありますか。

EPO 今年2025年がデビュー45周年なんです。実は40周年もいろいろやろうとしていたのですが、コロナ禍で全部飛ばしちゃったんですね。それで今、新しい作品を準備しています。ひとつは、これまでに作ってきた忘れがたい作品を今の自分の声と今のアレンジで表現するセルフカヴァー集。それと、オリジナル・アルバムもほぼ出来上がっているので、これもリリースしたいと思っています。本当にいい曲ばかりなんですよ(笑)。

──それはとても楽しみです!

EPO これまでの経験を経た今の私だからこそ作ることができる作品になると思うので、ぜひ期待して待っていてください!




EPO(エポ)
●1980年シングル&アルバム『DOWN TOWN』でデビュー。
『オレたちひょうきん族』のエンディングテーマとなった「土曜の夜はパラダイス」や、「う、ふ、ふ、ふ、」、「音楽のような風」など、数々のヒット曲を発表。
1988年渡英。ヴァージンUKと契約。海外で活動。
帰国後、POPSから等身大のEPOを表現させた癒し系作品が幅広い年齢層より注目を集める。
現在『声』という楽器を通じ、LIVEを中心にホールコンサート、胎教LIVE、お寺、病院、ホスピスなどユニークな音楽活動を展開中。
2017年沖縄県南部にある鍾乳洞ガンガラーの谷で行われたライブの模様を収めたDVD+CDアルバム『EPO AQUANOME LIVE at VALLEY of GANGALA in OKINAWA』をリリース。
デビュー45周年を迎える2025年リリースに向け、現在セルフカバーアルバムと新作アルバムをレコーディング中。

▼EPOオフィシャルサイト
https://www.eponica.net/

https://x.com/Epono
https://www.facebook.com/EPO.eponica/


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