2024年11月号|特集 吾妻光良&ザ・スウィンギン・バッパーズ
【Part3】牧裕と渡辺康蔵が語るジャズとバッパーズ
インタビュー
2024.11.21
インタビュー・文/原田和典 写真/島田香
(【Part2】からの続き)
「優等生的なプレイをしているとダメなんだな」と思った(渡辺康蔵)
楽器をやってなかったらもうジャズは聴いてないかもしれない(牧裕)
── 前回は、吾妻光良&ザ・スウィンギン・バッパーズの誕生エピソードや初レコーディングの話などをうかがいました。結成にあたって吾妻さんは、牧さんと渡辺さんにどんな要請をなさったのでしょう? いきなり「ジャンプ・ブルースを一緒にやるぞ」と誘ったのでしょうか?
牧裕 僕が相談を受けたのは、吾妻が好きなルイ・ジョーダンとかゲイトマウス・ブラウンの曲を大きな編成でやりたいという非常に具体的な話でした。
── 即座に、そうしたミュージシャンの名前にピンときましたか?
牧裕 彼と付き合うようになって、僕がジャズのレコードを聴かせたり、ブルースやジャンプ・ミュージックを聴かされたりということでちょっとは知っていたんですよ。「そういうのをやりたい」と言い始めたので「なるほどな、じゃあ管楽器とピアノは俺が連れてくるよ」という風になった。
渡辺康蔵 だけど俺たちに、たとえば「こういうふうにやってくれ、ルイ・ジョーダンみたいにやってくれ」というようなリクエストは昔も今もないね。最初の頃も、集まって譜面を吹いていくうちにグループの一体感みたいなものが出てきて、それはドラムの岡地(曙裕)が引っ張っていくところもあるけど、しだいにバッパーズ・サウンドができていった。
── 結成された45年前は、ジャンプ・ミュージックという言葉も、それに取り組むバンドも、かなり珍しかったと思うのですが、周りの反応はどんな感じだったのでしょうか。
渡辺康蔵 俺が覚えているのは「次郎吉」で3月にやったときに、お客さんが満杯だったこと。「こんなに入るんだ」と思った。
牧裕 パッパーズというよりも吾妻光良(の人気)だよね。
渡辺康蔵 あいつ、人気あったんだね。俺は「ピットイン」の朝の部に出たことがあるけど、客が5人ぐらいしかいなかったもの。
●牧裕 (まき・ゆたか)
1955年12月8日、神戸市葺合区に乾二、文子の長男として生まれる。’75年に大学に入学、ジャズのサークルでコントラバスを弾き始める。’79年、吾妻光良 & The Swinging Boppersの結成に参加。’80年の大学卒業後、バークリー音楽大学に留学……することなく今日に至る。
●渡辺康蔵 (わたなべ・こうぞう)
ジャズ・プロデューサー、ミュージシャン、作家。早稲田大学モダンジャズ研究会〜日本コロムビアを経て、ソニーミュージックで日野皓正、ケイコ・リー等のプロデューサーとして活動。’22年よりフリーランス。山本剛トリオや山下久美子をプロデュース。また、吾妻光良&ザ・スウィンギン・バッパーズのサックスを結成当初より担当。著書にミステリー短編集『ジャズ・エチカ〜ジャズメガネの事件簿』(彩流社)。インターネット・ラジオ『今夜も大いいトークス〜センチなジャズの旅』のパーソナリティ。
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