2024年11月号|特集 吾妻光良&ザ・スウィンギン・バッパーズ

【Part2】牧裕と渡辺康蔵が語るジャズとバッパーズ

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インタビュー

2024.11.14

インタビュー・文/原田和典 写真/島田香


【Part1】からの続き)

牧のウッド・ベースがゲイリー・ピーコックのような音がするんですよ(渡辺康蔵)

サークルではほかにポール・ブレイやゲイリー・ピーコックが好きで聴いている人はいなかった(牧裕)


── 前回はおふたりと吾妻光良さんが出会う直前までお話をうかがいました。ここから、牧さん、渡辺さん、吾妻さんの出会いの時へと移ります。

牧裕 僕がいた理工学部のサークル(Swing & Jazz Club)と吾妻がいたサークル(ロッククライミング)が隣どうしだったんです。大学に入ってすぐの頃に、僕がいたサークルの仲間に紹介されたのがきっかけで知り合いました。当時、彼のサークルには同じ学年のやつが1人しかいなくて、そいつが酒を全然飲めなかったから、「飲みに行くときには俺も誘ってくれよ」みたいなことを最初に吾妻に言われた。初めて部室で一緒に演奏したのは3年の時でした。

渡辺康蔵 みんなサークルが違うんですよ。牧はスウィング&ジャズ(Swing & Jazz Club)で、俺はモダンジャズ研究会といってタモリさんの系譜。牧と俺はサークルが違うけれど、学部は一緒だった(法学部)。何となく顔は知っているみたいな感じ。俺は吾妻のことは風の噂では知っている感じだった。それで吾妻がビッグバンドみたいなものをやりたいということを牧に相談したんだよね。

牧裕 そう、吾妻がね。そのときは5年生になっていた、吾妻も僕も康蔵も。吾妻が卒業記念に、ちょっと大きい編成のバンドをセッションとしてやってみたいと話しかけてきた。彼のサークルには管楽器もピアノもいないし、だったら管楽器とピアノは僕が集めてくるよと。でも適当なアルトがこっちのサークルにいなかったんですよ。それでモダンジャズ研究会でレギュラーをやっていた康蔵のことを思い出して、ちょっと頼んでみるかという感じで声をかけた。

渡辺康蔵 それが8号館の階段の前。「おまえ吾妻、知ってる?」「聞いたことあるけど」みたいな、そういう始まりだった。この話を映画にしたいんだけど、なかなか実現しないね。

牧裕 僕のサークルにたまたま頼めるアルトがいなかったんですよ。ジャズのサークルといっても、まんべんなく楽器が揃っていることはあんまりないんです。

渡辺康蔵 吾妻はすでに有名人だったね。

牧裕 あのときはもう妹尾隆一郎さんのレコード(『Weeping Harp Senoh - Boogie Time』・’77年)にも参加していて……。



妹尾隆一郎
『Weeping Harp Senoh - Boogie Time』

1977年発売


渡辺康蔵 あのレコードには渡辺香津美さんと吾妻が両方入っていたものな。

牧裕 吾妻は学生時代からツアーに出ていましたね。もちろんリーダーではないですけど。

渡辺康蔵 それに比べると俺たちは学生バンドだもん。そこだけは吾妻を多少リスペクトしているから。大分前、大阪でブルースフェスティヴァルに出たじゃん。そのとき上田正樹さんが「吾妻くんと会ったのはいつだったかな」と言ったら、吾妻が「忘れもしない1977年の日比谷の野音でお会いしました」と答えていて。’77年の俺は大学3年ぐらい、吾妻も同じ学年だから、その時にはもう上田正樹と一緒にやっていたんだなと考えると、それはかなり進んでいるよね。

牧裕 うん。




●牧裕 (まき・ゆたか)
1955年12月8日、神戸市葺合区に乾二、文子の長男として生まれる。’75年に大学に入学、ジャズのサークルでコントラバスを弾き始める。’79年、吾妻光良 & The Swinging Boppersの結成に参加。’80年の大学卒業後、バークリー音楽大学に留学……することなく今日に至る。

●渡辺康蔵 (わたなべ・こうぞう)
ジャズ・プロデューサー、ミュージシャン、作家。早稲田大学モダンジャズ研究会〜日本コロムビアを経て、ソニーミュージックで日野皓正、ケイコ・リー等のプロデューサーとして活動。’22年よりフリーランス。山本剛トリオや山下久美子をプロデュース。また、吾妻光良&ザ・スウィンギン・バッパーズのサックスを結成当初より担当。著書にミステリー短編集『ジャズ・エチカ〜ジャズメガネの事件簿』(彩流社)。インターネット・ラジオ『今夜も大いいトークス〜センチなジャズの旅』のパーソナリティ。

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