2024年10月号|特集 和ジャズ
【Part3】神成芳彦(レコーディング・エンジニア)|Special Long Interview
インタビュー
2024.10.18
インタビュー・文/原田和典 写真/安川達也(編集部)
取材協力/ディスクユニオン、雷庵スタジオ
取材協力/ディスクユニオン、雷庵スタジオ
(【Part2】からの続き)
ここ雷庵スタジオに録音に来た方にまず聴いてもらうのは『ブロー・アップ』の「アクア・マリーン」なんです(神成芳彦)
── 神成さんが1975年(昭和50年)にアオイスタジオ(麻布)からヤマハのエピキュラススタジオ(渋谷)に移られると共に、TBMのレコーディング場所も変わります。中村誠一『アドベンチャー・イン・マイ・ドリーム』(’75年)の頃から、TBMのエピキュラス時代が始まります。
神成芳彦 エピキュラスはポップス主体のスタジオなんです。細かいブースがいくつもあって、ポップスではドラムもヴォーカルも音量の小さな楽器を演奏する人もそれぞれのブースに入って演奏しました。ジャズに関しても、全部オンマイクの感じではなくて、アンビエンスを足して録音するようになりました。ヤマハにいるときの私は、ポップスもクラシックも担当していました。すべてに対応するために、オンマイクとオフマイクのバランスをどうするか、その調整法を編み出して録音していましたね。
中村誠一
『アドベンチャー・イン・マイ・ドリーム』
1975年9月11日録音(TBM-53)
── TBMでジャズを録音しつつ、ヤマハですから、もう本当にありとあらゆるものをご担当なさっている。中島みゆき『親愛なる者へ』(’79年)にもエンジニアとして神成さんのお名前がクレジットされています。
神成芳彦 世界歌謡祭やポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)などヤマハが主催したものに関しても、ほとんど私が手掛けました。JOC(ジュニアオリジナルコンサート)で子供たちとN響(NHK交響楽団)が組んだ演奏の録音もしましたね。
── ポプコンといえば、チャゲ&飛鳥やクリスタルキングを輩出した一大コンテストでした(’69~’86年まで開催)。
神成芳彦 コンテストのライヴ録音には関わりましたが、その後、レコード会社からデビューしてからの作品は、それぞれ別のエンジニアが録音しています。
今田勝
『リメンバー・オブ・ラブ』
1978年2月18日PCM録音作品(TBM-5007)
── ’78年になると、TBM初のデジタル録音(PCM録音)アルバムとして、今田勝『リメンバー・オブ・ラブ』が制作されます。デジタルということで、何か変わることはありましたか?
神成芳彦 PCM録音だからといって、別に意識したことはないですね。素材がテープであろうが何であろうが、録音するだけです。ミキシング上は何も変わることはないと思います。
── 当時最新の機械にも、いつも通りに対応なさって。
神成芳彦 そうですね。
── この『リメンバー・オブ・ラブ』の前の今田さんの作品は、ジョージ・ムラーツとのデュオ『アローン・トゥギャザー』です。「スカリー280B2を76㎝/secで使用してのダイレクト・2チャンネル録音」「リミッター、イコライザー、エコーといった電気処理は一切行なわれていない」「しかもカッティングは76㎝/secマスターを38㎝/secのスピードで回し、カッティング・マシーンも16 2/3回転で回すという、ハーフスピード・ハイレベルカッティングである」と、当時の宣伝文にあるのですが、こうした機材の使用は神成さんの発案なのでしょうか?
神成芳彦 私はそこまではタッチしていません。多分、藤井(武)さんが情報を仕入れてきて、そうしたんじゃないかなと思う。
── 藤井さんは、それほど音にこだわっていらした。
神成芳彦 音にもピアノにもこだわっていて、ピアノに関してはとにかくスタインウェイを好んでいました。ただ、私にはこういう音にしてくれという注文は一切なかったですね。録ったときのそのままの音が(レコードで)再現できれば、藤井さんとしては満足なのだと思います。
── 先ほどの宣伝文の意味は、私にはよくわからないところもあります。ただ、聴けば、音の鮮度がものすごいことは体感できます。
神成芳彦 テープスピードが速い76(ナナロク)で録ったのと、38(サンパチ)で録ったのと、音がどういうふうに違うのかというと、76の場合は、音は太いんだけどガッツに欠けるんですよ。38には、ガッツというか、ちょっと尖った部分があります。そういう意味では、使い分けたと思います。
── ’79年5月には、ロンドンのオリンピック・サウンド・スタジオに足を運んだとうかがっています(中本マリのビクター盤『アフロディーテの祈り』)。
神成芳彦 エンジニアはキース・グラントで、私は録音していません。レコーディングを見に行って、「こんな録り方もあるんだ」と参考になりましたね。オリンピック・スタジオは、クラシックから何からなんでも録れる大きなところです。ストリングスは一番後ろにセッティングされていて、(バンドと)同時録音です。日本だとストリングスの録音は大体ダビングになりますが、ブラスも入って同時に録音している。私にとっては画期的でした。
── TBMは’79年に日本フォノグラム、’82年にトリオ・レコードと契約し、その間も新作をレコーディングしていましたが、’84年のトリオ・レコード解散と共に活動が途絶えます。一時的に復活したのはCD全盛の時代になってからですね。
●神成芳彦 (かんなり・よしひこ)
レコーディング・エンジニア。1943年10月12日、樺太(当時)生まれ。’65年アオイ・スタジオに入社。’70年にはTBMの2作目、今田勝カルテット『ナウ!!』(’70年)でチーフ・エンジニアを務め、以降、100枚を超えるTBM作品のレコーディングを手がける、この時期に各種録音を多数受賞。’74年にはヤマハが運営するエピキュラス・スタジオに移籍。’84年からはヤマハ音楽院でミキサー講師も歴任。’99年の退職後、栃木県那須に「スタジオ雷庵」を開設。
スタジオ雷庵オフィシャル : http://www3.yomogi.or.jp/st-lion/lion/
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2024.10.11