2024年10月号|特集 和ジャズ

【Part3】小川隆夫が選ぶTBMの定番作品~その1|スリー・ブラインド・マイス(TBM)レーベルストーリー

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解説

2024.10.18


文/小川隆夫

【Part2】からの続き)

小川隆夫が選ぶTBMの定番作品❶


 スリー・ブラインド・マイス(TBM)はさまざまな意味で1970年代から80年代にかけて日本のジャズ・シーンを活性化させる大きな役割を果たした。積極的な形で無名の新人にリーダー作を吹き込ませることを当初の使命とし、次には大御所を起用することでファン層の拡大を図る。それにより、レーベルの隆盛と日本のジャズ・シーンを充実させた功績は大きい。

 とりわけ熱心なファンの間でしか知られていなかった、峰厚介、今田勝、山本剛、土岐英史、和田直、金井英人といった新人や中堅、戸谷重子、中本マリ、細川綾子、後藤芳子などの実力派シンガーにアルバム吹き込みチャンスを与え、彼らや彼女たちを人気者に育てた実績は評価されてしかるべきだ。


山本剛トリオ
『ミッドナイト・シュガー』

1974年3月1日録音(TBM-23)
★1974年度「ジャズ・ディスク大賞 最優秀録音賞 第3位」


 TBMから諸作を発表することで注目される存在になった代表格が山本剛と鈴木勲だ。ふたりはレーベルの創世記から中期にかけで最大のスターとなった。とりわけ山本は立て続けに優れたアルバムを発表したことで、またたく間に日本のジャズ・シーンにおける輝かしいスターの座を獲得する。

 山本は六本木の人気ジャズ・クラブ「ミスティ」を中心にピアノを弾いていたが、スウィンギーなタッチはレコーディングする前からファンの間で大評判を呼んでいた。その彼をレコード・デビューさせたのがTBMである。「日本のエロール・ガーナー」と呼ばれるノリのいい奏法と日本人離れしたブルース・フィーリング――これらを融合させ、とことん追求したのがデビュー作の『ミッドナイト・シュガー』だった。


山本剛トリオ
『ミスティ』

1974年8月7日録音(TBM-30)
★1974年度「ジャズ・ディスク大賞 最優秀録音賞 第1位」
<TBM復刻コレクション第Ⅰ期作品>


 本作は山本のその後を決定づけた名盤。つけ加えるなら、TBMの金字塔でもある。この作品が、そしてこれ以前に発表された鈴木勲の『ブロー・アップ』がなければ、TBMはどうなっていたかわからない。

 山本は、これより5か月前にデビュー作『ミッドナイト・シュガー』を吹き込んでいる。それに続く単独リーダー作がこの作品。盛り上がる人気の中で吹き込まれた本作である。その期待に十分すぎる名演で応えたのが山本だ。冒頭を飾る「ミスティ」の美しさ――過去の恋を思い出すかのように、お馴染みのメロディが淡々と積み重ねられていく。間合いを生かしたフレーズが聴くもののイマジネイションを掻き立てるような演奏だ。



鈴木 勲トリオ/カルテット
『ブロー・アップ』

1973年3月29・30日録音(TBM-15)
★1973年度「ジャズ・ディスク大賞 日本ジャズ賞 第1位」
<TBM復刻コレクション第Ⅰ期作品>


 鈴木勲は自由が丘にあったジャズ・クラブ「ファイヴ・スポット」のハウス・バンドを率いるベーシストで、こちらも高い実力に比して過小評価に甘んじていた。きっかけはTBMで録音した初リーダー作の『ブロー・アップ』。山本同様、筋金入りのブルース・フィーリングを発揮したこのアルバムは、当時の日本人ジャズ・ミュージシャンによる作品として記録破りのベストセラーとなり、’73年の『スイングジャーナル』誌における「日本ジャズ大賞」を獲得する。それにともない、鈴木も同誌の人気投票で「ベース部門」のポール・ウィナーに輝いている。



鈴木 勲トリオ
『黒いオルフェ』

1976年2月20日録音(TBM-63)
★1976年度「ジャズ・ディスク大賞 最優秀録音賞 第5位」


 当時の鈴木は人気・実力共に本邦ナンバー・ワンのベーシストで、次々と聴き応え十分なアルバムを発表していた。『黒いオルフェ』は、持ち味であるソウルフルな音楽性が親しみやすいサウンドとほどよい形で調和したもの。それがタイトル曲にご機嫌な形で集約されている。冒頭の鈴木が弾くチェロの響きがなんと重厚なことか。そしてしばらくすると彼のソロでテーマが奏でられる。これが実に心に染み入るプレイとなった。山本剛が弾くエレクトリック・ピアノも味があるし、この時期に多くの共演を残しているトリオ(ドラマーはドナルド・ベイリー)の演奏は、ラフだが、心地よいジャジーな響きを醸し出すことに繋がった。



高柳昌行と新世紀音楽研究所
『銀巴里セッション~1963年6月26日』

1963年6月26日・27日録音(TBM-9)


 銀座にあったシャンソンのライヴ・ハウス「銀巴里」で’61年に始まった「フライデイ・ジャズ・コーナー」は、高柳昌行と金井英人が立ち上げた「新世紀音楽研究所」の主催である。金曜日の午後ということもあって定員約100の店はガラガラでも、数か月に一度、営業時間後に朝方まで続けられた「ミッドナイト・コンサート」はいつも超満員だった。そのうちの’63年6月26日から翌朝にかけて繰り広げられたセッションを収録したのがこの作品だ。

 当時、日本のジャズ・ミュージシャンの多くはアメリカのジャズをどれだけ正確にコピーできるか、そのことに心血を注いでいた。ファンや評論家やレコード会社の大半もそれをよしとする風潮にあった。しかし、一部のミュージシャンは「オリジナリティのある演奏をすべし」の考えに傾いていた。そうした意欲的なミュージシャンの集まりが「新世紀音楽研究所」であり、その発表の場が「銀巴里」だった。

 しかしそんな演奏を録音して売り出そうというレコード会社は皆無である。たまたま熱狂的なジャズ・マニアで、以前から高柳や金井たちと親しくしていた愛知県岡崎市在住の内田修医師がこのオールナイト・セッションを、「みんなで聴いたら楽しいだろうな」と考え、録音していた。この夜の、大学生の藤井武も客として参加していた。それも、このライヴがアルバム化される大きな原動力となった。

 そして’70年にTBMがスタートするや、藤井はテープの所有者である内田の了承を得て、演奏に参加したミュージシャンからLP化の許諾をもらう。このアルバムが世に登場したのは’72年3月のことである。「発売してもそれほどの話題にならなかった」と藤井はいうが、リアルタイムでこのLPを購入したぼくは、それこそ胸を躍らせ、何度も耳を傾けたものだ。





BOOK
『スリー・ブラインド・マイス 
コンプリート・ディスクガイド』
小川隆夫・著

2017年刊/駒草出版