2024年10月号|特集 和ジャズ

【Part2】TBMの誕生|スリー・ブラインド・マイス(TBM)レーベルストーリー

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解説

2024.10.9


文/小川隆夫

【Part1】からの続き)

日本のジャズが世界に通用すると信じて疑わなかった熱狂的なジャズ・ファンがいた__


 1970年、日本で初のインディー・レーベル、スリー・ブラインド・マイス(TBM)が誕生した。熱心なジャズ・ファンの藤井武(当時29歳)が高校時代からの夢を実現させるべく、友人の佐賀和光(建築家)と魚津佳也(レストラン、ガソリンスタンドを経営する実業家)に声をかけ、3人で興したレコード会社だ。「スリー・ブラインド・マイス」は3人の会社であることから名づけられた。資本金の300万円は全額が藤井の出資である。

峰厚介五重奏団
『峰』

1970年8月4・5日録音(TBM-1)
<TBM復刻コレクション第Ⅰ期作品>


 TBMの第1回新譜は9月20日に発売されている。個人的なことで恐縮だが、前日にバンドの仕事でもらったギャラを握りしめ、新宿にあったレコード・楽器店の「コタニ」でそれら2枚を買い求めた。これで一晩のギャラはすべて消えてしまった。しかし家に戻ってレコードに針を落としたとたん、その4千円には何倍もの価値があると思われた。

 高校時代からジャズに熱中して数年。いちばんのめり込んでいた時期である。ほとんど学校には行かず、ジャズ三昧の日々だった。夜はバンド活動に熱中し、それでもらったお金はすべてレコードに注ぎ込んでいた。

 海外のアルバムではブルーノートやプレスティッジの中古盤をあさり、それと同じくらい日本人アーティストのレコードも買っていた。こちらは、店に出れば500円ぐらいで買えるものが大半だった。

 新宿の「ピットイン」では、渡辺貞夫が大スターで、それに続いて人気を博していたのが日野皓正やジョージ大塚たちだ。60年代後半、これらのひとたちはタクトというマイナー・レーベルからアルバムを発表し、それらを夢中になって聴いていた。そのことが懐かしい。

 そしてタクトの活動が低調になってきたころ、入れ替わるように登場したのがTBMだった。第1回新譜の2枚、『峰厚介/峰』と『今田勝/ナウ!!』でリーダーとなったふたりは、どちらも「ピットイン」で聴いていたし、やがてこのレーベルのドル箱スターになる山本剛はいくつかのライヴ・ハウスで、そして鈴木勲は自由が丘の「ファイヴ・スポット」で何度も聴いている。

 TBMは数か月に2作品ずつ発売していた。70年代前半までは、日本人が録音したジャズ・レコードはそれほど注目を浴びていなかった。それもあって、首尾よくTBMのテスト・プレス盤をほぼ毎回手に入れることができたし、ほかのレーベルから出ていた日本人アーティストのレコードも、ほとんど競争相手がいなかったから、この時代に中古でかなりの数を集めることができた。



BOOK
『スリー・ブラインド・マイス 
コンプリート・ディスクガイド』
小川隆夫・著

2017年刊/駒草出版