2024年10月号|特集 和ジャズ

【Part1】TBM設立前後の日本のジャズ・シーン|スリー・ブラインド・マイス(TBM)レーベルストーリー

解説

2024.10.1


文/小川隆夫

真摯にジャズの創造性を追求している若手や無名のミュージシャンにスポットライトを当てたTBM


 これまで日本のジャズ・シーンは何度か大きな盛り上がりを示してきた。中でも自分自身が肌で感じたいちばんの盛り上がりは1960年代末から70年代初頭にかけてのブームである。主役は渡辺貞夫。そして彼に続いたのが、日野皓正、菊池雅章、ジョージ大塚たちだ。

 ’65年、渡辺がバークリー音楽院での留学を終えて帰国する。ブームの伏線となったのがこの帰国だ。それまでのわが国では、本場のジャズをいかに上手くコピーするかに興味が向けられていた。一部のミュージシャンはオリジナリティを追求していたものの、それでは大きな評判を呼ぶことができなかった。ファンの目が「チャーリー・パーカー風のアルト・サックス」とか「ソニー・ロリンズ的なプレイ」といったものに向けられていたからだ。かくいう渡辺も、留学前は「和製チャーリー・パーカー」と呼ばれ、絶大な人気を誇っていた。

 彼の帰国直後に新宿で「ピットイン」がオープンしたことも大きい。当初は週末のみライヴを行ない、そこに渡辺がレギュラー出演するようになった。その前年には、銀座に「ジャズ・ギャラリー8」も誕生しており、こちらにも彼が出演して大きな話題を集めている。こうしたジャズ・クラブ(ライヴ・ハウス)が、有名無名を問わず、オリジナリティを追求する優れたミュージシャンを登場させたことで、アメリカのコピーに辟易していたファンおよびミュージシャンを触発したのである。ブームのお膳立ては整っていく。渡辺は自宅を開放し、私塾のような形で、希望する後輩にバークリーで学んだものを教え始めた。そこに顔を出していたのが菊池雅章や富樫雅彦といった、次代を担う精鋭たちだ。



渡辺貞夫
『JAZZ&BOSSA』

1967年発売


 ’66年にはタクト電気がジャズ専門のタクト・レーベルを設立。迎えられたのが渡辺だ。当時の日本では、ジャズ・ミュージシャンがポップスやボサノヴァを演奏するのはタブーとされていた。その禁を堂々と破ったのが渡辺である。彼は留学時代にそうした音楽に親しみ、帰国後は真摯にジャズを演奏する一方、その手のポピュラー音楽も積極的に披露するようになった。’67年に発表されたタクトからの1作目『ジャズ&ボッサ』がそのことを象徴的に示している。このアルバムは、それまでの日本におけるジャズ史上で考えられないほどのベストセラーを記録したのだった。

 渡辺の人気が一般のひとにまで広がるようになったのは、’67年から始まった日曜朝のテレビ番組『ヴァン・ミュージック・ブレーク』によってである。これは、当時学生の間で絶大な人気を誇っていた服飾メーカーのヴァン・ジャケットがスポンサーとなり、渡辺のグループをレギュラーで出演させた30分のジャズ番組だ。この番組はファッションとジャズを結びつける役割も果たすことになった。

 同じ’67年には日野皓正が本格的なデビュー作『アローン・アローン&アローン』を、やはりタクトから発表し、こちらも空前のベストセラーを記録する。ファッション雑誌から抜け出たような日野のスタイリストぶりと、派手なプレイが相乗効果となり、このときから「ヒノテル・ブーム」が巻き起こる。こうして、渡辺と日野というふたりのスターが生まれたのだ。



日野皓正カルテット
『アローン・アローン・アンド・アローン』

1967年発売


 振り返ってみると、この時代は優れたミュージシャンが群雄割拠していた。渡辺のグループにいたピアニストの菊池雅章が日野と双頭クインテットを結成したのが’69年のことだし、’67年ごろから脚光を浴び始めたジョージ大塚のトリオが人気を爆発させたのもこの年だった。いずれもタクトからアルバムを発表して大きな話題を呼んだことは特記すべき事実である。

 優れたミュージシャン、活躍する場所、作品を発表してくれるレコード会社――これら3つがバランスよく整うことによって、ジャズはいつの時代も大きな盛り上がりを示す。このときがまさしくそうだった。渡辺を中心とした創造的なミュージシャンの充実、「ピットイン」をはじめ、各地に誕生したライヴ・ハウス、そしてタクトの成功によって多くのメジャー・レーベルが日本人ジャズ・ミュージシャンのアルバムを制作する──これらが’67年から’69年にかけて認められるようになったのだ。

 タクトに続く本格的なジャズ専門レーベルのスリー・ブラインド・マイス(TBM)が誕生したことも、ブームにさらなる拍車をかけることになった。こちらは藤井武という熱狂的なジャズ・ファンが私財を投じ、’70年に設立したレーベルだ。初期のタクト同様、TBMもマイナー・レーベルの持ち味を生かし、メジャー・レーベルが手をつけない新人を次々と起用した点に特徴がある。鈴木勲、山本剛、今田勝、菅野邦彦、峰厚介といった70年代以降のジャズ・シーンを語る際に欠くことができない重要なアーティストのデビュー作すべてがTBMには残されている。このあたりは、本場のアメリカで「世界一のジャズ・レーベル」と評価されたブルーノートに通じるものだ。

峰厚介五重奏団
『峰』

1970年8月4・5日録音(TBM-1)
<TBM復刻コレクション第Ⅰ期作品>


 ’70年前後の日本のジャズ・シーンは空前のブームに湧いていた。TBMは、渡辺貞夫や日野皓正のタクト作品によって火のついた日本人ジャズ・ミュージシャンによるブームが最高調に達する時期に設立された。しかしこのレーベルは、ブームにあやかって創設されたわけではない。ブームに浮かれず、真摯にジャズの創造性を追求している若手や無名のミュージシャンにスポットライトを当てることで、日本のジャズを底辺から支えていこうとしたのがTBMだ。

 この時代は、ジャズが異様な熱気の中で、ポップスや歌謡曲と並ぶ人気を誇っていた。しかし注目すべきは、ブームの渦中にあっても音楽的にいい加減なものがなかったことだ。なにかがブームになるときは、その流れの中で徐々にクオリティが下がってくる。しかしジャズの場合は、ブームと関係なく常に優れた音楽が追求されていた。

 そのことを、なにより雄弁に語っていたのがタクトやTBMで代表されるこの時代の作品だ。むしろブームという勢いに後押しされ、いつも以上に充実した演奏や優れたアイディアを聴かせていたのが70年前後の日本におけるジャズの現場である。あの時代の熱気と試行錯誤の中から生まれたオリジナリティ──TBMが残した当時のアルバムを耳にすると、それが少しも色褪せずに甦ってくる。

 戦後のジャズ・ブームに続くこの盛り上がりは、70年代に入ると世界的なフュージョン・ブームの中でさらなる高まりを示すようになった。ジャズはコマーシャルや映画・テレビの音楽にもたびたび使われるようになり、ジャズ・ファン以外のひとにも親しまれる音楽になっていく。ここでも主役を演じたのは渡辺と日野だ。しかし、若いミュージシャンの台頭にも目覚しいものがあった。渡辺香津美、本多俊之、ネイティヴ・サン、カシオペア、ザ・スクェア(現T-SQUARE)といったミュージシャンやグループが大きな人気を獲得し、アルバムの売り上げも、ときによってはポップスを凌ぐまでになったのである。

鈴木 勲トリオ/カルテット
『ブロー・アップ』

1973年3月29・30日録音(TBM-15)
<TBMプレミアム復刻コレクション第Ⅰ期作品>


 一方、そうしたムーヴメントと背を向けるかのように、優れた逸材がニューヨークに移住していく。これも70年代の特徴だ。切っかけは菊池雅章で、その後は、増尾好秋、川崎燎、鈴木良雄、さらには菊池の誘いで日野皓正までニューヨークに移住してしまう。ひところは、精鋭の多くが彼の地に流出した感があった。しかし日本のジャズの屋台骨を支える中心的ミュージシャンがニューヨークに移ったことにより、却って同世代や後続のミュージシャンにチャンスが巡ってくる。この事実も見逃せない。

 TBMはこうした時期に魅力的な作品を次々と制作していた。マイナー・カンパニーゆえ、大物アーティストやスター・プレイヤーはなかなか起用することができない。それでも、ライヴ・ハウスを中心に創造的な演奏を追求していた逸材を次々に取り上げ、知名度は低くても実力のあるひとたちをファンに紹介していた。一般にはほとんど知られていなかった今田勝と峰厚介のリーダー作品を第1回新譜として発売したことからもその姿勢が伝わってくる。以後も、福村博、山本剛、辛島文雄、大友良雄、土岐英史、三木敏悟、山中良之、藤原幹典など、ネーム・ヴァリューより実力を優先させた新人の作品を、ためらうことなく制作していったところがTBMならではだ。

山本剛トリオ
『ミスティ』

1974年8月7日録音(TBM-30)
<TBMプレミアム復刻コレクション第Ⅰ期作品>


 70年代中盤になると、各社も日本のミュージシャンによる作品を積極的に制作するようになってきた。しかしそれらの大半は「売れるミュージシャン」、あるいは「売れる作品」に焦点が絞られていた。そうした中で、TBMはひたすら良心的なアルバム作りを継続する。その結果、ネーム・ヴァリューのあるミュージシャンからも支持されるようになり、ジョージ川口、松本英彦、日野皓正といったトップ・アーティストの作品まで録音するようになっていく。

 一方で、TBMは自社のアーティストを一同に集めたフェスティバルや新人の登竜門となるコンテストを主催するなど、マイナー・レーベルとは思えぬ活動も70年代中盤から後半にかけて行なっていた。しかし80年代以降はさまざまな理由から活動の縮小を余儀なくされ、アルバム制作は散発的になってしまう。そして、2003年にレコーディングは休止したものの、TBMが残したアルバムは、日本のジャズが隆盛を誇った時代の置き土産として、いまも多くのファンの心をときめかせている。

【Part2】に続く)



BOOK
『スリー・ブラインド・マイス 
コンプリート・ディスクガイド』
小川隆夫・著

2017年刊/駒草出版