2024年10月号|特集 和ジャズ
【Part1】神成芳彦(レコーディング・エンジニア)|Special Long Interview
インタビュー
2024.10.1
インタビュー・文/原田和典 写真/安川達也(編集部)
取材協力/ディスクユニオン、雷庵スタジオ
取材協力/ディスクユニオン、雷庵スタジオ
TBMのアルバムを120枚以上レコーディングした伝説のエンジニア、神成芳彦。日本のルディ・ヴァン・ゲルダーと呼ぶ人もいるが、ご本人は70年代当時、その名前はよく知らなかったらしい。静かな那須の森の中に在る「雷庵スタジオ」で天性のジャズ録音技師が、レコード創造、TBMのこと、音楽の愉しみ方まで時間の許すかぎり語ってくれた。
URCは、よくアオイ・スタジオを収録に使っていました。私も若かったので、若者どうしで仕事をしていた感じですね。あの頃はいろんなフォーク系のアーティストのアルバムを録音していると思いますよ(神成芳彦)
── 最初の音楽体験をおきかせいただけますか?
神成芳彦 子供の頃から音楽が好きで、邦楽や洋楽のヒット曲などをずいぶん聴いていました。うちにあった電蓄(電気蓄音機)で、美空ひばりの「お祭りマンボ」とか、三橋美智也、江利チエミなどのレコードをいろいろかけていましたね。
── 78回転のレコードですね。
神成芳彦 そうです。私の音楽歴の始まりはそのあたりでしょうか。
── いつ頃から音の仕事を志すようになったのでしょうか?
神成芳彦 高校の時には音楽に携われる仕事を志していました。できれば放送局みたいなところに務めたいとは思っていました。
── 高校卒業後は東京電子専門学校に進学なさって……。
神成芳彦 ここではテレビ放送に関することを学びましたが、エンジニアの仕事にはあまり役に立っていないですね。学校を卒業してからは、10チャンネルに就職したかったんですが……
── 当時の「NETテレビ」、現在の「テレビ朝日」ですね。
神成芳彦 はい。結局、放送局の募集定員がいっぱいだということもあり、東映動画に就職しました。就職した当時、関わっていたのは(テレビアニメの)『狼少年ケン』や『少年忍者 風のフジ丸』などです。そうした動画の音楽やセリフを編集しました。5分ほどのフィルムのロールを何個もつなげて番組の放送時間(尺)にあわせて、(登場人物の口の動きと)セリフがずれている場合は、よくテープを編集しました。その頃はまだ、今みたいにデジタルで修正できる時代ではありませんでしたから。ダビングで、音楽や効果音を物語に合わせていく作業もしましたね。この知識は無駄にはならなかったですね。
── そして1965年、麻布アオイ・スタジオに入社なさいました。
神成芳彦 私が入ってすぐに取り組んだのは、映画『東京オリンピック』の海外版です。アオイ・スタジオ自体が映画に強いところでしたから。
── 市川崑監督の『東京オリンピック』に、海外向けのヴァージョンがあるのですね。
神成芳彦 東京オリンピックが行われたのは1964年ですよね。日本版の『東京オリンピック』はもう完成していて、その海外版をやるということになった。私はそのとき映写係だったんですよ。35ミリのフィルムでした。
── 映画の音響を担当するようになったのは、その後でしょうか。
神成芳彦 そうです。アシスタントからスタートして、音楽を挿入したり、セリフの録音を担当するようになりました。
── 俳優さんが演技する頭上で大きなマイクを持ったり、などでしょうか?
神成芳彦 それはしなかったですね。アフレコ(撮影後に俳優の声を別途録音するシステム)でしたから。マイクが2本あって、それぞれに俳優さんが立って、しゃべって、声を録音しました。シーンによっては、距離感を出すために片方のマイクをちょっとオフにしたり、反対側のマイクを活かしたり、そういうこと(テクニック)も使いました。
── それは神成さんがお仕事をしていく間に覚えたテクニックですか?
神成芳彦 そうですね。
── やがて、アオイ・スタジオの音楽のレコーディングの方に移られたとうかがいました。
神成芳彦 動画の仕事をすると目が疲れやすくて、どうも苦手な感じがするようになったので、音楽の方に行きたいと、第7スタジオのアシスタントからスタートしました。(音楽の方に移って)最初に覚えたのは楽典(楽譜)ですね。音楽家が今、どこを演奏しているかをエンジニアとして知っておきたいと思ったんです。音楽に詳しい先輩がいたので、リードシートを作ってもらって、それを見て、進行も教えてもらって。今でもスコアを見たら、何小節目に何が出てくるか追っていけますよ。
── 神成さんが最初に録音したレコードは何でしょうか?
神成芳彦 よく覚えていませんが、当時はグループサウンズの全盛期が後半の頃で、ジャガーズ等を録音した記憶はあります。ほか、URCの作品もずいぶん録音しました。
── アングラ・レコード・クラブですね。今ではURC(1969年1月発足)もTBM(1970年6月発足)もソニーミュージックが権利を持っています。フォークとジャズ、当時の日本では異端であったに違いない二大インディ・レーベルが、どちらも今は大メジャーの傘下というのも実に興味深いですし、その両方で神成さんがエンジニアとしてご活動されていたのも、すこぶる刺激的な事実です。神成さんは、どのようにしてURCとつながったのでしょうか?
神成芳彦 URCは、よくアオイ・スタジオを収録に使っていました。私は何回かアシスタントを務めた後、メインのエンジニアになりました。URCのスタッフは若い人ばかりでしたし、私も若かったので、若者どうしで仕事をしていた感じですね。いろんなフォーク系のアーティストのアルバムを録音していると思いますよ(金延幸子『み空』、加川良『教訓』、三上寛『ひらく夢などあるじゃなし』、五つの赤い風船『Flight』、友部正人『大阪へやって来た』、斉藤哲夫『君は英雄なんかじゃない』ほか)。
金延幸子
『み空』
1972年9月1日発売
── 今日はURC、明日はTBMというスケジュールの時もあったのではないかと思います。当時、どんな感じで、このエキサイティングな日々を過ごしていらっしゃったのでしょうか?
神成芳彦 特別に何か、レーベルごとにこうしようという気持ちはなかったと思いますよ。ただ、他に誰もやってないようなサウンドにしたいとは考えていましたし、そういうことをやりやすい良い環境ではありました。うるさく言う先輩が誰もいなかったですし。ただ、私としては、ジャズの方がよく録れたという実感があります。そういう意味ではジャズと感性が合っていたのかもしれないですね。
── そして、TBMとの関わりに先立って、とても重要な作品があります。日本ビクターから発売された、宮沢昭の『いわな』です。
神成芳彦 これが、私がメインで録音した初めてのジャズ・レコーディングです(1969年6月30日と7月14日)。四家(秀次郎)さんが録音を担当することになっていた記憶がありますが、私に出番が回ってきたんですね。「だいぶアシスタントを続けてきたんだから、今回はお前がやってみろ」という感じで、この仕事が来たんだと思います。
宮沢昭
『いわな』
1969年6月30日
── 私は『いわな』をCDでしか聴いたことがありませんが、サックスのカルテットにパーカッションが加わった編成で、そのパーカッションがラテン系とは異なる実に独特な役割をしています。バンド全体の響きに臨場感があって、各楽器の音も骨太です。録音にあたって、何か参考というか、リファレンスとしたジャズ・レコードはありますか?
神成芳彦 ジャズの仕事は初めてでしたから、ジャズということはあまり意識していなくて、やっぱり楽器の音とレコーディングの音を近づけようという……「原音再生」じゃないけれど、人と同じようなことをしていたら二番煎じになるんじゃないかと思って独自に取り組んでいた感じですね。
── 「このマイクはジャズに合いそうだな」と考えて選んだりなさったのでしょうか?
神成芳彦 そういうのを考えたことはないですね。そこにあったマイクで録る。『いわな』はマイクをかなり楽器に近づけています。「おりん」の音が入っていると思いますが、本当にかなり近くから、多分ノイマンのマイクで録りました。
── 『いわな』の監修はジャズ評論家の油井正一さん。神成さんとTBMの藤井武さんを引き合わせたのも油井さんでした。
神成芳彦 油井さんとは『いわな』のレコーディングが初対面でした。私はあまりジャズを聴いてこなかったので、実はお名前も存じ上げていなかったのですが、油井さんは(『いわな』の)音をとても気に入ってくださって、藤井さんが「日本のジャズをレコーディングするレーベルを始めたい」と伝えたときに、「神成というエンジニアがいるよ」と伝えた。それが、私がTBMで録音するようになったきっかけです。
(【Part2】怒涛のTBMイヤーズ、名盤録音秘話などへ続く)
●神成芳彦 (かんなり・よしひこ)
レコーディング・エンジニア。1943年10月12日、樺太(当時)生まれ。’65年アオイ・スタジオに入社。’70年にはTBMの2作目、今田勝カルテット『ナウ!!』(’70年)でチーフ・エンジニアを務め、以降、100枚を超えるTBM作品のレコーディングを手がける、この時期に各種録音を多数受賞。’74年にはヤマハが運営するエピキュラス・スタジオに移籍。’84年からはヤマハ音楽院でミキサー講師も歴任。’99年の退職後、栃木県那須に「スタジオ雷庵」を開設。
スタジオ雷庵オフィシャル : http://www3.yomogi.or.jp/st-lion/lion/
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【Part2】神成芳彦(レコーディング・エンジニア)|Special Long Interview
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2024.10.11