2024年10月号|特集 和ジャズ
【Part1】山本剛(ジャズ・ピアニスト)|Special Long Interview
インタビュー
2024.10.1
インタビュー・文/原田和典 写真/島田香
取材協力/ディスクユニオン
取材協力/ディスクユニオン
50年以上にわたり日本のジャズ・シーンを支えるピアニスト、山本剛。ミッキー・カーチスのバンド時代から1974年にTBMからリリースしたレコード・デビュー作『ミッドナイト・シュガー』、そして代名詞となった大ヒット作『ミスティ』の誕生、海外楽遊まで、ジャズを演奏する歓びをじっくりと語ってもらった。
「坊や、弾いたふりしていればいいからな。音を出すんじゃないぞ」と言われたことを思い出しますね(笑)(山本剛)
── 山本さんが初めて感銘を受けた音楽は何ですか?
山本剛 僕の家に下宿していた高校生だったか大学生が「剛くん、レコードを聴きに来ないか」と言って、ある日突然アート・ブレイキーの「危険な関係のブルース」のシングル盤をかけてくれたんです。その片面に入っているアフロ・キューバン調の……。
── 「危険な関係のサンバ」ですね。ボビー・ティモンズのピアノがメロディを奏でています。
山本剛 僕は子供の頃にピアノを習っていたけど、嫌になって練習をやめていた。でも「危険な関係」のボビー・ティモンズを聴いて、ピアノって面白いなと思って「コード表」(宇山恭平・著「モダン ジャズ メモランダム」)を買いに行ったり、ステレオのあるところからピアノのあるところまで走っていってレコードと同じフレーズを弾いたり、そういうことをするようになりました。
── 「危険な関係」のレコードが日本で発売された1960年当時は、まだロカビリーが流行していたのではと思います。その中で、山本さんはインストゥルメンタル(器楽演奏)の「危険な関係」に大きな感銘を受けたのですね。
山本剛 あのメロディが良かったんだよね。それからジャズを好きになりました。もちろん他の音楽も嫌いじゃなかったけどね。ほら、「悲しき少年兵」(歌手:ジョニー・ディアフィールド)、「グッド・タイミング」(歌手:ジミー・ジョーンズ)とかさ。
── 故郷の新潟では、ジャズのライヴをお聴きになりましたか?
山本剛 高校生の時に松本英彦、鈴木勲、菅野邦彦、ジョージ大塚のカルテットを新潟日報のホールで聴いたのが初めてだったと思います。嬉しくてサインももらったんじゃないかな。ほか、コロナベさんという、キャノンボール(・アダレイ)みたいにサックスを吹いていた渡辺明のバンドも聴きました。その二つは本当に衝撃的でした。
── その後、大学に進学なさいます。
山本剛 僕は新潟から日大に入ったんですが、入学のときに、三島の校舎と世田谷の校舎のどちらかを選ぶことになりました。僕は関東の土地勘がなかったので、東京の地図で場所を調べたら、世田谷は端にあって、三島については何も載っていないんだ。
── 静岡県ですからね。
山本剛 でも、それがわからない(笑)。「都心だろう」と思って三島を選んじゃった。1年間、三島の校舎に行ったんだよ。三島では純喫茶みたいなところにピアノレスのバンドが入っていて、そこでちょっとピアノを弾かせてもらったりしていました。そこでドラムの植松良高と出会ったんです。僕が大学1年の頃ですよ。僕と彼(植松)は年が1つ違うのかな。
── 植松さんとはのちにレコーディングしています(1999年のアルバム『スピーク・ロウ』など)。出会った当初からジャズを演奏したんですか?
山本剛 ジャズですね。彼(植松)はすぐ東京に行って、あっという間に大沢保郎さんと大野雄二さんと演奏していました。
── そんな山本さんが、ロックのイメージの強いミッキー・カーチスさんのバンドに加わるのがとても興味深いです。
山本剛 東京に行ってピアノをチョロチョロ弾き始めたときに、飯倉にあった「ニコラス」という大きなピザ屋で演奏するトラ(代役)の仕事を頼まれたのがきっかけです。「ニコラス」でハモンド・オルガンを弾いていたら、ミッキー・カーチスのマネージャーがメンバーを探しに日本に来ていて、いきなり「ヨーロッパに行かないか」と誘われた。「明日、銀座のヤマハの前で待ち合わせだ。今日考えて、返事をくれ」と。ちょうど日大紛争の頃でしたので、僕にとってはいいチャンスだと思って学校へ行かず、ヨーロッパに行きました。まだまだ海外に出かけることはハードルの高い時代でしたし。
── そして、銀座のヤマハでミッキー・カーチスのマネージャーさんと会うわけですね。
山本剛 そのときが初対面です。そこから長い付き合いが続いていますね。僕のレコーディングで歌ってもらったこともありますし(ロブスターレーベル盤『恋に恋して』など)、先日はミッキーさんの住む名寄市(北海道)に行って、いろんな昔話をしました。
── ヨーロッパ・ツアーに出たミッキーさんのバンド“サムライ”(“サムライズ”)には、ドラムの豊住芳三郎さんが在籍していた時期もあるようですが。
山本剛 僕がいた頃のメンバーは、ドラムの原田裕臣、のちにフェイセズ(英国のロック・バンド。ロッド・スチュワート等が在籍)に加わるベースの山内テツ、それからヒロ・イズミさんという大先輩のギタリスト。その編成だった。僕の楽器はヤマハのコンボオルガン中心で、ほかは大正琴も弾いたり。(「金毘羅船々」のメロディを歌って)これをロックにしたりとか、お兄ちゃん(ミッキー)がたまに「バット・ノット・フォー・ミー」を歌ったり。いろんな出し物(レパートリー)を覚えて、練習して。大体の形は決まってるからね。
── ヨーロッパ滞在中のレコーディングは?
山本剛 ロンドンに確か「マーキーズ」というスタジオがあって、そこで何かやった覚えはあるんだけど、定かじゃないんだよね。僕らが一番初めに本拠地にしたのはスイスの、すぐフランスに行けるような所で、そこのモーテルか何かに住んでた。夜になると、国境を越えて、すぐそばのカジノに行って。「カジノ・デ・デバーン」と言ったかな。そこの地下で演奏していたね。そのうちホームシックみたいになって(笑)、フランス語もしゃべれないし、実家にコレクトコールで電話して、半年ぐらいで帰国しました。
── 1968年に発行されたあるジャズ雑誌には、吉田多宏(よしだかずひろ。サックス奏者)カルテットの一員として山本さんの名前が登場しています。
山本剛 吉田さんとは「タロー」(新宿歌舞伎町のジャズクラブ)とかで演っていたと思います。でも、帰国して最初に僕が仕事をした場所はキャバレーですよ。「クインビー・チェーン」のキャバレーがいくつも入ったビルが新宿にあって、その地下の「トランジスター」で演奏していました。小柄な女性が集まっていて……。
── 「トランジスター・グラマー」という流行語もありました。
山本剛 「坊や、弾いたふりしていればいいからな。音を出すんじゃないぞ」と言われたことを思い出しますね(笑)。そのあと銀座で仕事を始めて、歌とコンガの森山浩二、ベースの海野欣児、ドラムの小原哲次郎さんと「アユチ」という結構有名なクラブで演奏しました。夜中は「仮面」という、森繁久彌、アイ・ジョージ、ジョージ川口、丘みつ子、土田早苗など文化人がいっぱい来るようなところで、コンガ・トリオで演奏して。最高だった。森山、海野とのトリオでテレビにも出たこともありますよ。その映像がどこかにないかなと探しているんだけど。
── 番組の題名は?
山本剛 『街の人気者』。3人でテレビ局のスタジオに行って演奏して。森山がまた、いい声をしているんだ。
── そのしばらく後に、森山さんと山本さんは、TBMに共演盤を録音していますね(1975年『ナイト・アンド・デイ』、1977年『スマイル』)。
山本剛 僕たちはすごい近かったからね。六本木の「ミスティ」(’73年に開店)です。ミスティは初めは菅野邦彦さん、その後はNYからレジー・ムーア・トリオが演ってて、その後が僕のトリオ。歌は曜日で縦に決まってました。例えば月曜日は安田南、火曜日は森山浩二、水曜日は伊藤君子とかって感じでした! ハコバンドだったので、旅などは行けずでした(笑)。それぞれのステージを聴いた(TBMの)藤井武さんが、僕と森山浩二の共演を録音したいと話してくれた。あんな歌い手は他にいないから。
── 森山さんも再評価が著しいミュージシャンのひとりです。あの粋な感じが、しっかり次世代にも伝わっています。
山本剛 ちょっとサミー・デイヴィスJr.みたいな雰囲気もあって、タップダンスもうまくてね。トコちゃん(日野元彦)もタップをやったけど、その先輩だよね。♪ジャスト・ウォーキング・イン・ザ・レインと歌いながらタカタタカタとタップを踏んで。米軍キャンプで鍛えたショーマンでした。
── 1973年頃、山本さんはゲス・マイ・ファインズにも参加なさっています。中村誠一さんがフリーフォームの山下洋輔トリオを離れて、およそ180度違うジャズに取り組むために組んだバンドだとうかがっています。
山本剛 メンバーはサックスが中村誠一、トロンボーンが福村博、ピアノが僕、ベースが福井ちゃん(福井五十雄)、ドラムがジローさん(小原哲次郎)。「スタンダードなジャズをやりたい」という連絡を(中村から)最初に受けたときは、「本当に?」という感じでしたよ。
── ゲス・マイ・ファインズというグループ名の由来は何だったのでしょう?
山本剛 ジローさんが「ゲスマイ、ゲスマイ」と言いながらドラムを叩くんですよ。それがグループ名の由来です。別に意味はないと思います。
── 山本さんの豊富なキャリアの中でも、管楽器入りのクインテットは割と珍しいのではないでしょうか。
山本剛 そうですね。旅(ツアー)にも出ましたが、そう長くはやってなかったかな。
山本剛トリオ
『ミッドナイト・シュガー』
1974年3月1日録音(TBM-23)
── 山本さんの初リーダー・アルバムで、TBMを代表するロングセラーのひとつである『ミッドナイト・シュガー』(1974年3月録音)は、福井さん、小原さんとのトリオですが、これはゲス・マイ・ファインズ在籍中のレコーディングですか?
山本剛 このときには独立して僕のトリオになっていました。
── 新人のデビュー・アルバムの最初と最後に、自作のブルース・ナンバーが収められているのは、今なお大胆だと思います。しかも全5曲入り、つまり1曲あたりの演奏にじっくり時間がかけられています。
山本剛 曲は自分で選んだと思いますね。藤井さんはダメだと言う人ではないから。「ミッドナイト・シュガー」は即興的に生まれたスロー・ブルースで、ライブでもリクエストが来るんです。初めの頃はレコード通りそっくりコピーして演奏しなきゃいけないのかなと思ったこともありましたが、雰囲気が大事なんだと思うようになって、その都度の「ミッドナイト・シュガー」を演奏するようになりました。
▲山本剛トリオ『ミッドナイト・シュガー』裏ジャケットより
── 「アフター・アワーズ」(エイヴリー・パリッシュのピアノをフィーチャーしたアースキン・ホーキンス楽団の演奏でヒット。フィニアス・ニューボーンJr.やレイ・ブライアントも演奏)のようなスロー・ブルースであることは踏まえつつ、自由に即興していく。だから再演ごとに味わいの異なる「ミッドナイト・シュガー」が楽しめるわけですね。ところで、TBMから最初のレコーディングのオファーが来たときのことは覚えていらっしゃいますか?
山本剛 藤井さんとも、魚津(佳也)さんとも、ピアノを弾く佐賀(和光)さんとも、TBMの3人とは以前から知り合いでしたし、TBM(というレーベル)があるということも耳にしていました。ある時「ミスティ」で僕の演奏を聴いて気に入ってくれた藤井さんが、録音しようという話を持ちかけてくれたんだと思います。藤井さんには辛口のことしか言わないイメージがあったから、嬉しかったですね。そして、レコーディング・スタジオでエンジニアの神成芳彦さんに会いました。
── 神成さんとは『ミッドナイト・シュガー』の時が初対面ですか?
山本剛 そうです。レコーディングではあまり喋ることもないし、今でもジャズについてあれこれ語り合った記憶はない。でも交流は今も続いています。
山本剛
『Sweet for K』
レコーディング/ミックス:神成芳彦
2023年11月20日音響ハウスにて
── 神成さんの雷庵スタジオで録音された『BLUES FOR K』、音響ハウスに神成さんを招いて録音した『Sweet for K』といった近作も好評です。おふたりのコンビネーションが半世紀を経た現在も続いていることが、後追いの世代としてとても嬉しいです。
山本剛 11月にもまた神成さんの録音で新作を作りますよ。今度はスタジオ・ライヴです。
── 山本さんにとって、神成サウンドの最大の魅力は?
山本剛 とにかく、ガツンとくるね。これに尽きますよ。
(【Part2】名盤『ミスティ』誕生秘話、黄金のTBMイヤーズetc.に続く)
●山本剛 (やまもと・つよし)
ピアニスト。1948年3月23日、新潟県佐渡郡相川町生まれ。’67年、日本大学在学中、19才でプロ入り。ミッキー・カーティスのグループに加入し英国~欧州各国を楽遊。’74年、TBMレーベルより、初のリーダー作、山本剛トリオ『ミッドナイト・シュガー』でレコード・デビュー。スケールの大きなブルース・フィーリングとスイングするピアノがファンの注目を集め、続く『ミスティ』が大ヒット、人気ピアニストとしての地位を確立する。’77年にはモンテレー・ジャズ・フェスティヴァル(アメリカ)、’79年にはモントルー・ジャズ・フェスティヴァル(スイス)に出演。 笠井紀美子、安田南等ヴォーカリスト達と共演する一方、ディジー・ガレスピー、カーメン・マックレイ、サム・ジョーンズ、ビリー・ヒギンズ、エルビン・ジョーンズ、ソニー・スティット、スティーヴ・ガッド、エディー・ゴメスら多くの内外ミュージシャンと共演。数多くのフェスティヴァル出演、テレビの音楽番組に携わるなど多岐にわたって活動中。
山本剛オフィシャルサイト : www.tsuyoshi-yamamoto.com
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2024.10.11