2024年8月号|特集 アルファの夏!

【Part3】|幻の名盤『リンダ・キャリエール』物語

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解説

2024.8.29

文/小川真一


クレオールの歌手に、僕たち日本人が作った作品を歌わせたい


【Part2】からの続き)

 リンダ・キャリエールとの対面は感動的であった。ニューオーリンズまで会いにいった見上チャールズ一裕氏にとっても、そして勿論リンダ本人にとっても、どれだけ喜ばしく、幸福な一日であったのだと思う。“幻のアルバム”の主人公である彼女を探し出し、彼女と会うまでの冒険談は、Part1 と Part2 をじっくりと読んでいただきたい。

 では、そのリンダ・キャリエールという才能はいかにして発見されたのか。そしてプロデューサーである細野晴臣と彼女は、いかなる出会いをしたのか。時計の針を70年代に戻して検証してみよう。

 話は、アルファレコードを創設した村井邦彦氏が、細野晴臣とプロデューサー契約したことから始まる。当時はまだプロデューサーの役割が確立されておらず、ましてレコード・レーベルがプロデューサーと契約することなど、まったく異例であった。このあたりが村井氏の先見であるのだ。ともあれ、この契約がなければ、リンダ・キャリエールのアルバムはこの世に出ることはなかったはずだ。

 この話には前説がある。先に村井氏と細野氏のファースト・コンタクトから話をはじめなければならない。二人が出会ったのは、広尾にあった川添浩史氏の邸宅。’70年もしくは’71年となるはずなのだが、村井・細野の両氏の記憶が曖昧ではっきりとしない。

 川添浩史氏(当初は本名の紫郎を名乗っていた)は、伝説のイタリア料理店「キャンティ」のオーナーである。それだけではなく、明治維新に貢献した後藤象二郎の孫である彼は、若き日には写真家のロバート・キャパと友好を結び、日本におけるフランス映画の紹介にも携わっている。

 他にも、“アジア復興”と銘打った「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」の橋渡し役を果たしたり、国際的な文化プロデューサーの名に恥じない多彩な活動をした。「キャンティ」が文化人や著名人に愛された理由には、このような背景があるのだ。レストラン「キャンティ」のモットーは“子供の心をもつ大人たちと大人の心をもつ子供たちのために作られた場所”。さまざまな人々が自由に行き交う自由な場所、それはまるで第一次世界大戦前のガートルード・スタイン女史のパリのサロンのようであった。